なぜ走る? 文化系レベルランニング

東京マラソン2010にたまたま当選してしまった「読書が趣味」の文化系人間。 それ以来、50歳を過ぎた今も、なぜか走り続けています。 走ることにどんな意味があるのか? 「からだ」「こころ」「グッズ」「レース」「本」などから、走ることについて考える、ランニングブログです。

カテゴリ:文系的に > 考えてみたこと

今年は桜の開花が遅かったものの、最近暖かくなってきたためか、それとも記録狙いのレースがなくなったせいか、私も心に油断があったようで、風邪を引いてしまいました。
昨日は、掛川新茶マラソンの応援を予定していましたが、少し熱があったためキャンセルし、家で寝て過ごすこととなりました。


寝ていて思う走ること

こんな風に週末を過ごすのは何か月ぶりなのか思い出せません。土日のどちらかはだいたい走っているのでも寝て過ごす週末が少し新鮮。最近は身体を鍛えてばかりで疲労がたまっていたので気分転換にもなりました。
とはいえ、昨日は、フルマラソンを走っているひとがいるのに、こちらは身体がだるくてダウンという状況。頭痛がひどく、その苦しみが早く消え去ることを祈るばかりでした。やっぱり健康が一番大事だなあ、と基本中の基本について再認識させられることとなりました。


走っていて苦しい人、苦しくて寝てる人

頭痛と微熱は幸いにも収まったところで、今日は、改めて身体の「苦しさ」というものについて考えてみることにしました。
昨日は横になって病人として過ごしましたが、身体の苦しさは病人とマラソンランナーで違います。病人は病気の症状により苦しい。これに対して、レース中のランナーは一生懸命走っているから苦しい(のんびり会話しながら走っていたら苦しくないです)。同じ「苦しい」でも病人とランナーでは意味合いが違います。

受動的か能動的か

病気やケガの苦しさからは、治らなければ解放されません。治るかどうかは自分の意志で自由に決められず、意志が通用するのは治そうという気持ちの部分だけです。
一方、必死で走るランナーの苦しみは、身体の疲労がおもな原因で(重度の脱水症や捻挫などの病気やケガとは別の話です)、走ることを止めれば終わるものです。

病気やケガは受動的で、自分の意志で苦しみから逃れることは難しく、一生懸命走ることは能動的で、自分の意志で体力限界の走りを止めさえすれば苦しみは終わります。


ランナーが自ら苦しんで得るもの

マラソンランナーの苦しみは、病気と違っていつでも終わらせることができる。まずこの自由さが、苦しさを軽くします。
苦しくなったら歩いてしまえばいいですし、歩いても苦しければリタイアして収容バスに乗ってしまえばそこで完全に身体的な苦しさからは開放されます(もちろん心理的な苦しさが生まれるリスクもありますが・・・)。
マラソンの苦しさは、病気と比べれば仮の苦しさです。もし、走るときの苦しさがまったく制御不能だとしたら、マラソンをする人はいないでしょう。

しかし、それ以上に大切なことは、どんなに苦しくてもその苦しさが必ず終わることを知っている点です。病気が不安なのは、苦しさがいつまで続くのかわからないことです。

そして、マラソンランナーが苦しみから解放される一番の解決策は、ゴールすることです。
いつでも苦しみから解放される権利を持っていながらそれを行使せず、フルマラソンなら42.195kmを走り切る。ここにマラソンにおける苦しみの意味があります。

では、なぜマラソンランナーが好んで苦しむかと言えば、自分にとってのベストの形でゴールしたいからです(ベストの走りでなければ苦しくありません。たぶん)。

マラソンランナーが得るものは、完走や自己ベスト更新などの達成感や自己満足などいろいろとあると思いますが、そんなことより実は苦しんでゴールするのが単純に楽しいからマラソンに出るのではないか?
そういう何の役に立つのかわからないことが楽しいのが、スポーツであり、ゲームであり、遊びというものの本質なのだ、と結論づけた病み上がりの私でした。 

先日、「夜と霧」でナチスの強制収容所体験を描いたヴィクトール・E・フランクルの思想について書かれた「知の教科書 フランクル」(諸富祥彦著)という本を読んでいたら「中年クライシス」という言葉が出てきました。


「中年クライシス」とは

「中年クライシス」とは、人生の折り返し地点にさしかかった中年世代が自分の人生の意味を問い直す際に生じる心理的不安定、といったもので「中年の危機」とも呼ばれます。中高年になった人間が、若い時にあった可能性を失ったとき、現実の自分をどう受け入れていくかが問題になります。

「自分が本当にしたいことはなにか」という自己実現の問いが若い世代の問いであるのに対して、「自分の人生を意味あるものとするには、残りの人生をどのように生きるべきか」という意味実現の問いあるいは使命実現の問いが中高年の問いとなると著者の諸富氏は言います。

私はこの部分を読んで、40歳前後でマラソンを始める人が多いことと「中年クライシス」には何か関係があるのではないかと考えました。


私がマラソンを始めたのも中年期

私がマラソンを始めたのは38歳の時で、やはり中年に差し掛かった時代でした。マラソンのきっかけは、東京マラソンにたまたま当選したことで、精神的不安や残りの人生についての考えがあったわけではありません。しかし、フルマラソンに応募して、しかも出場したということは、人生の下り坂を無意識に感じ取っていたのかもしれません。

40歳ぐらいになると、30代前半までと比べて疲労や怪我からの回復力がかなり落ちてきます。また、社会的には家庭を持ったり、会社でのポジションがほぼ見えてきたりと、後半の人生に大きな変化の可能性が感じにくくなってきます。そういう時に、マラソンに目覚めるというのはどういうことなのでしょうか?


ランニングを始めたきっかけは?

世間の人がランニングを始めた動機についてネットで調べてみました。
RUNNETの「ランナー世論調査2016」によると次のようになっています。

RUN始めの動機

第1位が「運動不足解消」、第2位が「健康のため」、第3位が「ダイエット」、と上位3つが身体的なもので、精神的な何かに関するものは第4位の「ストレス解消」、第8位の「楽しそうだから」、第9位の「精神鍛錬のため」でした。
ランニングを始める動機は、やはり身体的なものが普通です。
「最近、太ってきたから走るかあ」「健康診断の結果がヤバいから走る」というのがよくあるものでしょう。
しかし、始めるきっかけというのは、単にきっかけでしかなく、同じ始めた人の中でも続く人と続かない人の間には大きな隔たりがあります。
そこで、同調査にある「続ける理由」というものも見てみることにします。


ランニングを続ける理由

RUN続ける動機

ランニングを続ける理由は、第1位が「レース出場にむけて」、第2位が「健康のため」、第3位が「楽しいから」となり、純粋に身体的なものではない「レース出場」と「楽しさ」が上位に入ってきました。第5位の「目標達成のため」第6位の「走力向上のため」はレースタイムや完走などが関係していて、何らかの成長を求める向上心が関わっていると思われます。

RUNNETはレース情報と申し込みがメインのサイトですから、ここでアンケートに答える人はレース経験があるひとばかりだと思いますが、ランニングを続ける人の多くは、健康や体力維持のためだけはく、自分自身の進歩・進化というものを念頭に置いていると思います。私もまた、ご存知の通り、レースタイムを上げて自分が進歩していくことに楽しみを見出しています。


ランニングをやめる理由

●上り坂世代(若者)

ところで、こちらの記事(1年以内にランニングを辞めている人は約7割! その理由は?…デサント調べ)にデサントさんの調査による「6ヵ月以内にランニングをやめた理由」が出ていました。
5位までだけを紹介しますが、下のようになります。

 1位:走ることが億劫になった
 2位:仕事など他のことが忙しくなった
 3位:生活リズムの変化により走る時間がなくなった
 4位:なんとなく走りたくなくなった
 5位:精神的な疲れ

何となくわかりますね。走り始めた人が、走ることに興味をもてなかったのでしょう。
この調査は20代・30代の男女225名を対象に行ったそうですが、まだ人生上り坂な感じの人たちの答えのような気がします。走らなくても他にも楽しみがいっぱいある感じだし、まだまだ他に自分のやりたいことを追求できる余裕がある気がする(笑)。
 
ここからは、統計ではなく私の知人についてのことになりますが、私は、マラソンを始めたもののやめてしまった20代女子を3人ほど知っています。やめた理由は、ひとりは「レースに出てみたが疲れただけだった」、ひとりは「友達(女子)と比べて肌が黒くなっていることに気づいて嫌になった」、もうひとりは、「仲間どうしの付き合いで走っていたのだが、付き合いがなくなってやめてしまった」というものでした。タイムでも楽しさでも、何でもいいから走ることそのものに何らかの意義を見出せないと続かないものでしょうね。

●下り坂世代(中高年)

ランニングを続けていてやめてしまった中高年男性も3人知っていますが、ひとりは60代で「心臓病でドクターストップ」、ひとりは50代で「膝が痛くなりなかなか治らずやめた」、もうひとりも50代で「がんの手術をした」という理由です。中年以上の男性は健康を害してやめるひとが多いです。理由もなかなか切実・・・。走ること自体は続けたいけれど、身体がいうことを聞かないということでしょうね。中高年の女性は、私の周りの女性は皆続けているので、やめる理由はわかりません。


マラソンがもたらすもの

ランニングをはじめるきっかけは、一般的に、「健康」と「美容(ダイエットなど)」についての動機であることが一番のようです。きっかけがあれば、すべて人にランニングへの道が開かれるのですが、相性があり続く人と続かない人に分かれることになります。
若い世代は、家庭を持っていないひとも多く、仕事の能力もまだまだ発展途上。遊びもいろんなことをしたいですから、ランニングを始めるきっかけがあっても長続きするひとは少ないかもしれません。数ある可能性と選択肢の中からランニングを選んで続けるには相性がかなり良くないと難しい気がします。

中高年は若者に比べて、スポーツをはじめるにも選択肢がすくないですし、仕事や家庭についてもある程度落ち着いているひとが多く、健康のことも考えればランニングを続けやすい条件がそろっているようです。
調査結果を見ると、ランニングを続ける理由は「レース出場に向けて」が一番で、健康だけでなく楽しさや達成感、記録の向上など、走ること自体がもたらす結果に強く結びついています。
ランニングというスポーツはシンプルで走れさえすればよく、かつ、速く走れれば記録が伸びて成長できるという意味で、下り坂世代でも簡単に成長を実感できます
「中年クライシス」は、残りの人生に意味を見つけることと関係します。人生の意味を、実生活とは関係ない趣味のマラソンに見出せるかどうかは微妙なところですが、仮に仕事や家庭に意味を見いだせない状況にあったとしたら、ランニングでの成長は中高年にも大きな自信をもたらしてくれることは間違いありません。
また、身体が鍛えられ強くなることで若さを感じられることも、中高年に「まだまだやれる」という希望をあたえることでしょう。
折り返し地点を過ぎた下り坂の人生に新たな意味や使命を見出すことは、ランニングだけでは難しいかもしれませんが、自信を与えるという点からみれば、ランニングが「中年クライシス」を乗り越えるための大きな助けになるはずです。中高年でランニングを始めるひとが多いのは、ここに秘密がありそうです。



 

私は外を走ることが好きです。
ランニングマシーンにもよくお世話になっていますが、天気や気候、街並みの変化が感じられる屋外を走るほうがやはり楽しい。
春や秋は穏やかで心地よい一方、夏や冬は暑さ寒さが厳しく、自分のしていることに疑問に感じることもありますが・・・

走ることが習慣化され、距離が伸びてくると、河川敷や堤防を走ることが増えてきます。川の周りには信号が少なく、遊歩道が整備されていることも多いからです。どんな大都市にもだいたい大きな川があり、川に沿ってはしるコースはランニングの定番ではないかと思います。

普段の生活では、私が外に出て目にするものは、看板やショーウィンドウや道路標識などの記号、人間や自動車、足元の障害物、自然の木々や草花など、半径30m内にあるものです。

ランニングの時は、川の堤防を走ると、一気に視界が開けます。
そして「空」が見えます。

東京に住んでいたころは、スーパーやコンビニの他に、個性的な飲食店や商店があり、どこを走っても刺激が多く楽しかった反面、視界は人工物にさえぎられていました。

"智恵子は東京に空が無いといふ
ほんとの空が見たいといふ・・・"
 
むかし学校で習ったこんな詩を思い出したものです。
(「智恵子抄」高村光太郎)

東京時代は、よく荒川の河川敷を走りました。
「東京にも空があった」と感動したものです。

河川敷にくると、空を見上げるとこも多くなります。
大きな空を見上げることは、精神的にもいいらしいです。
私がランニングを勧めたい理由の一つがこれです。

電車や自動車に乗って会社に行き、屋内で1日を過ごし、帰りは夜になっている。こういう生活では、大きな青空を見ることは多くはないでしょう。

ランニングでなくてもよいですが、週に1度くらいは視界の開けた場所に出てみると気分が変わります。ふと、顔をすこし上げた瞬間に大きな空が広がっていることに気づきます。
日常生活とのギャップが、よい刺激になります。いかがでしょうか。


文化系ランナーを自称する私は、体育会系ランナーとは違い、走りにも、走る姿にもオーラがありません

だいたいショボくれたおっさんに見えるので、スポーツをやる感じには見えないでしょう。
スポーツマンの人は、いくつになってもスポーツマンの雰囲気でいられるものですが(もちろん中年太りになるひともたくさんいます)、文化系な感じの私はランニングというキツイ運動をするにもかかわらず、普段の姿はスポーツマンのそれとはまったく違う(文系的?)雰囲気をかもし出しているようです。

私はマラソンを初めて7年目になります。
タイムも3時間30分くらいでフルマラソンをコールできるくらいにはなったので、それなりにいろんな知識を蓄えて、フォームの改善などにも取り組んでいます。

しかし、私の「ランニング論」はどうも説得力がないみたいです。

私にはランニング仲間が何人かいて、ランニングについてや、マラソン大会の情報について話すことがよくあります。私は趣味が読書だったりするので、ランニングに関する本もよく読み、それなりに理解してランニングフォームや栄養についての情報を仲間に提供したりするのですが、どうもその情報がみんなの記憶に残ってはいないようなのです。けっこう信頼できる情報ですし、それらの情報から自分なりに成果を挙げているのですが、あまり重要視されないみたいです。

これはつまり、「信用」の問題だと思いました。

ランニング仲間も一人に昔短距離の選手だった男がいます。彼は普段ほとんど走らない「にわかランナー」ですが、高校大学とそれなりに活躍したため体育会系のオーラを出しています。短距離と長距離では、同じ「走る」でも中身が違いますので、過去の短距離競技の輝かしい記録はあまり長距離競技の参考にはならないはず。ところが、みんな彼の発言は非常によく聞くのです・・・。

確かに運動能力も、見た目のオーラも違います。過去の栄光と体育会系の雰囲気が、彼のスポーツ知識に関して「信用」をあたえているのですね。人間は見た目と権威には弱い。そういうことですね。
たとえそれが、ランニングというシンプルなスポーツであっても、やはり人間は見た目と雰囲気が重要。そんなことを再認識したというわけです。

ところで、私とは逆に、ものすごく速そうなオーラを出している人は、レースで遅いと周囲にがっかりした印象を与えてしまうので、注意が必要ですね。

 

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