なぜ走る? 文化系レベルランニング

東京マラソン2010にたまたま当選してしまった「読書が趣味」の文化系人間。40代半ばを過ぎた今も、なぜ走り続けているのか? 走ることの意味を問い続ける平凡なランナーが、身体や心理のことからグッズ、レース、書籍のことまで幅広い視点から展開する、一味違うランニングブログです。

カテゴリ:文系的に > 考えてみたこと

ようやく軽く走れるくらいまで、体が復調してきました。
振り返ってみると、走ることはおろか、満足に動けない状態がありました。
そんなとき、自分の身体について知らなかったことに気づき、それまで走れていたことの意味についても考えさせられました。


「走る時間」が「読む時間」に変わる

病院のベッドで動けないときにしていたことといえば読書でした。
病室に持ち込んだ数冊の本に一日の時間の多くを費やしました。
動けない生活が数日続くと、走ることに対する関心が薄くなります。自己ベスト更新を目標に頑張っていたころは、本やネットから「走ること」についての情報をたくさん取り込んでいましたが、ベッドで寝てばかりの生活では、走りの情報にも興味がなくなっていました。

ここで気づいたのは、身体が動かなくなるだけで、時間の使い方がかなり変わってしまうということでした。特に、スポーツが習慣になっている人は動けなくなれば、それまで身体の運動に費していた時間が、身体以外の活動の時間へと置き換わることになります。


「走る」と「読む」に必要なもの

走ることと読むことには、必要とするものに違いがあります。

当たり前のことですが、「走るとき」は身体活動がメインとなります。一方の「読むとき」は、その時間のほとんどが知的活動に費やされます。
走るときに身体を動かすことを止めれば、走ることができません。読書のときに、知性が働かなければ、単なる音読の発声練習と変わりません。
走るときは身体の動きが必須で、読むときは知性が必要となります。

また、走るときには、転倒の危険があるため、周りの状況に意識を向けます。逆に読書では、周りの状況に気をとられれば本の内容が理解できないので、本のページに意識を集中します。


「走る」と「読む」の共通点

人間の活動として、かなり違っている「走る」と「読む」という行為ですが、共通点もあります。

走るときは、脚の動きによって空間を進みます。外を走れば、「自宅から公園まで」というような移動が必ずつきまといます。これに対して、読むときは、視線が文字を追うにつれて必ずページが進むことになります。
走ると読むの共通点は「進むこと」です。(走る時は空間(移動距離)、読むときはページが進みます)。

「進むこと」にはスピードの速い・遅いが関わることがあります
。そして、「走ること」も「読むこと」のどちら場合も、スピードが速いと、世間で良い評価を受けるようです。脚が速いと賞賛されます(世界一足が速ければスーパースターです)。読むのが速いと、いろんな知識が増えますから社会的に成功しやすい。

しかし、読むという行為には「理解」が伴わなければなれません


「読む」という行為の意味

スピードという視点からみると、読書については速読というものが思い浮かびます。速読の達人ともなると、300ページもあるような本を10分くらいで読み終えてしまうようです。しかし、読書には「内容の理解」が求められます。どんなにたくさんの文字を目で追っても、その言葉の意味を正しく理解できないのならその読書にはほとんど価値がありません。読むという行為には「深さ」も求められるのです。
 走ることについてはどうでしょう?走る速さのほかに、フォームの美しさなどが語られたりしますが、読書にあるような理解の深さが価値の対象になることはありません。「あのひとの走りは深い」というようなコメントは聞いたことがないです。


「深い走り」を目指したい

こうして「読むこと」と「走ること」を比べてみると、今世界中で行われている走るという行為には深さが欠けているということがわかります。
しかし、走ることの深さとは...一体何のことなんでしょうか?(笑)

読書の深さが、本の内容の理解の深さであるとするなら、走ることの深さはランニングとその身体についての深さのような気がします。
走るという行為の意味が、人々にもっと理解される時に、「深い走り」というものが生まれるのでしょう(それがどういうものか想像がつきませんが...)。

私の走るスピードはそれほど速くありません。なので、私は死ぬまでに「あの人の走りは深いなあ」と感心されるような深いランナーになることを願っています。

『哲学者が走る: 人生の意味についてランニングが教えてくれたこと』(マーク・ローランズ著)という本を読んでみました。

著者はアメリカの大学で哲学を教えるイギリス人の教授です。
哲学の教授だけに、私が今まで読んだランニング関係の本を中では、「走ること」について最も深く・広く考えています。
ちなみに、この本の中でローランズ教授は、私がランニングの心の師と仰ぐ村上春樹氏についても言及しています。

今日はこの本を読んで、私が「走ること」の本質について考えさせられた一節をご紹介します。


走ることと、空間移動すること

ランニングでは、目標はAからBに移動することあるいは自宅からスタートする場合にはAから初めてAに戻ることである。この前置きの目標を達成するにはドライブ、徒歩、サイクリングなど様々な方法がある。
事実、目標がAからAの場合には、そのままそこにいるだけでもすむ。

私はこのブログを書き始めてから、走ることの意味について考えるようになりましたが、「走る」という行為が空間を移動することを前提にしていることについては当たり前すぎて、それについて深く考えることはありませんでした。しかし、この文章を読んだときに考えさせられました。

著者は上の文から、ランニングは「ゲーム」であり「遊び」であることを説明していきますが、私はむしろ走ることと空間移動に目が向きました。
 
私がいつも使っているランニングマシン(トレッドミル)は、どうなるのか?、と。


ランニングのコペルニクス的転回

かつて、走ることは空間を移動することを前提としていました。
しかし、室内で走るための道具であるトレッドミルが生まれ、空間を移動せずに走ることができるようになりました。
技術の進歩により、走るという行為は、空間の移動を前提としなくなったのです。

では、トレッドミルはなぜ空間を移動せずに走れるかというと、空間の代わりに地面の役割をするベルトが移動してくれるからです。ランナーの動きは、空間移動に代わりベルトの回転運動に置き換えられます

「自分が動くか、それともベルトが動くか」というこの変化は、「太陽が地球を回るのか、それとも地球が太陽を回るのか」、というかつての天動説と地動説の違いを思い起こさせるものです。トレッドミルの登場は、まさに、ランニングのコペルニクス的転回といえるでしょう。


空間を移動するランニングの場合

トレッドミルは、新しい技術による「動く地面」の発明であって、動かない地面をベルトによって動かし、本来なら身体が被る空間移動をなくしてしまいました。
しかし、トレッドミルは特殊な例で、通常は地面が動かないため、ひとが走ると普通は空間を移動することになります。

空間を移動するときは、引用にあるように「A地点から違うB地点に行く、あるいはA地点から同じA地点に戻る」ことになります。

ローランズ教授はこれについて、"目標がAからAの場合には、そのままそこにいるだけでもすむ”といいます。

ゴールとスタートが同じならば、走っても走らなくても(移動してもしなくても)一定時間の経過後に同じ場所にいれば結果は同じ。走るということは、空間移動が目的ではないということなのです。
走るという運動は本来、空間移動を前提としますが、それは走ったことの結果でしかありません。

走ることで空間を移動しますが、走ることは移動そのものが目的ではないということです。


マラソンは何を目的とするか?

マラソンレースは42.195kmを移動します。
マラソンは走る競技なので、この距離の移動は前提となります。
しかし、同じ距離なら何でもいいというわけではなく、走ることは人間の足で行い、かつ、同じレースならば、決められた同じコースを参加者全員が走るということになります。

恐らく、マラソンのルールでは走ることを強制してはいません。ゴールのタイムを参加者が競うため、より早くゴールにたどり着くため、あるいは、制限時間内に完走するため、全員が結果的に走るということになるようです。

マラソンは、同じコースを人間の足で移動し、なるべく早くゴールするのが目的のゲームということでしょう



今回は走るということについて少しだけ哲学的に考えてみました。
レースのシーズン中には、こういうことは考えません。シーズンオフいうことですね・・・

今年は桜の開花が遅かったものの、最近暖かくなってきたためか、それとも記録狙いのレースがなくなったせいか、私も心に油断があったようで、風邪を引いてしまいました。
昨日は、掛川新茶マラソンの応援を予定していましたが、少し熱があったためキャンセルし、家で寝て過ごすこととなりました。


寝ていて思う走ること

こんな風に週末を過ごすのは何か月ぶりなのか思い出せません。土日のどちらかはだいたい走っているのでも寝て過ごす週末が少し新鮮。最近は身体を鍛えてばかりで疲労がたまっていたので気分転換にもなりました。
とはいえ、昨日は、フルマラソンを走っているひとがいるのに、こちらは身体がだるくてダウンという状況。頭痛がひどく、その苦しみが早く消え去ることを祈るばかりでした。やっぱり健康が一番大事だなあ、と基本中の基本について再認識させられることとなりました。


走っていて苦しい人、苦しくて寝てる人

頭痛と微熱は幸いにも収まったところで、今日は、改めて身体の「苦しさ」というものについて考えてみることにしました。
昨日は横になって病人として過ごしましたが、身体の苦しさは病人とマラソンランナーで違います。病人は病気の症状により苦しい。これに対して、レース中のランナーは一生懸命走っているから苦しい(のんびり会話しながら走っていたら苦しくないです)。同じ「苦しい」でも病人とランナーでは意味合いが違います。

受動的か能動的か

病気やケガの苦しさからは、治らなければ解放されません。治るかどうかは自分の意志で自由に決められず、意志が通用するのは治そうという気持ちの部分だけです。
一方、必死で走るランナーの苦しみは、身体の疲労がおもな原因で(重度の脱水症や捻挫などの病気やケガとは別の話です)、走ることを止めれば終わるものです。

病気やケガは受動的で、自分の意志で苦しみから逃れることは難しく、一生懸命走ることは能動的で、自分の意志で体力限界の走りを止めさえすれば苦しみは終わります。


ランナーが自ら苦しんで得るもの

マラソンランナーの苦しみは、病気と違っていつでも終わらせることができる。まずこの自由さが、苦しさを軽くします。
苦しくなったら歩いてしまえばいいですし、歩いても苦しければリタイアして収容バスに乗ってしまえばそこで完全に身体的な苦しさからは開放されます(もちろん心理的な苦しさが生まれるリスクもありますが・・・)。
マラソンの苦しさは、病気と比べれば仮の苦しさです。もし、走るときの苦しさがまったく制御不能だとしたら、マラソンをする人はいないでしょう。

しかし、それ以上に大切なことは、どんなに苦しくてもその苦しさが必ず終わることを知っている点です。病気が不安なのは、苦しさがいつまで続くのかわからないことです。

そして、マラソンランナーが苦しみから解放される一番の解決策は、ゴールすることです。
いつでも苦しみから解放される権利を持っていながらそれを行使せず、フルマラソンなら42.195kmを走り切る。ここにマラソンにおける苦しみの意味があります。

では、なぜマラソンランナーが好んで苦しむかと言えば、自分にとってのベストの形でゴールしたいからです(ベストの走りでなければ苦しくありません。たぶん)。

マラソンランナーが得るものは、完走や自己ベスト更新などの達成感や自己満足などいろいろとあると思いますが、そんなことより実は苦しんでゴールするのが単純に楽しいからマラソンに出るのではないか?
そういう何の役に立つのかわからないことが楽しいのが、スポーツであり、ゲームであり、遊びというものの本質なのだ、と結論づけた病み上がりの私でした。 

先日、「夜と霧」でナチスの強制収容所体験を描いたヴィクトール・E・フランクルの思想について書かれた「知の教科書 フランクル」(諸富祥彦著)という本を読んでいたら「中年クライシス」という言葉が出てきました。


「中年クライシス」とは

「中年クライシス」とは、人生の折り返し地点にさしかかった中年世代が自分の人生の意味を問い直す際に生じる心理的不安定、といったもので「中年の危機」とも呼ばれます。中高年になった人間が、若い時にあった可能性を失ったとき、現実の自分をどう受け入れていくかが問題になります。

「自分が本当にしたいことはなにか」という自己実現の問いが若い世代の問いであるのに対して、「自分の人生を意味あるものとするには、残りの人生をどのように生きるべきか」という意味実現の問いあるいは使命実現の問いが中高年の問いとなると著者の諸富氏は言います。

私はこの部分を読んで、40歳前後でマラソンを始める人が多いことと「中年クライシス」には何か関係があるのではないかと考えました。


私がマラソンを始めたのも中年期

私がマラソンを始めたのは38歳の時で、やはり中年に差し掛かった時代でした。マラソンのきっかけは、東京マラソンにたまたま当選したことで、精神的不安や残りの人生についての考えがあったわけではありません。しかし、フルマラソンに応募して、しかも出場したということは、人生の下り坂を無意識に感じ取っていたのかもしれません。

40歳ぐらいになると、30代前半までと比べて疲労や怪我からの回復力がかなり落ちてきます。また、社会的には家庭を持ったり、会社でのポジションがほぼ見えてきたりと、後半の人生に大きな変化の可能性が感じにくくなってきます。そういう時に、マラソンに目覚めるというのはどういうことなのでしょうか?


ランニングを始めたきっかけは?

世間の人がランニングを始めた動機についてネットで調べてみました。
RUNNETの「ランナー世論調査2016」によると次のようになっています。

RUN始めの動機

第1位が「運動不足解消」、第2位が「健康のため」、第3位が「ダイエット」、と上位3つが身体的なもので、精神的な何かに関するものは第4位の「ストレス解消」、第8位の「楽しそうだから」、第9位の「精神鍛錬のため」でした。
ランニングを始める動機は、やはり身体的なものが普通です。
「最近、太ってきたから走るかあ」「健康診断の結果がヤバいから走る」というのがよくあるものでしょう。
しかし、始めるきっかけというのは、単にきっかけでしかなく、同じ始めた人の中でも続く人と続かない人の間には大きな隔たりがあります。
そこで、同調査にある「続ける理由」というものも見てみることにします。


ランニングを続ける理由

RUN続ける動機

ランニングを続ける理由は、第1位が「レース出場にむけて」、第2位が「健康のため」、第3位が「楽しいから」となり、純粋に身体的なものではない「レース出場」と「楽しさ」が上位に入ってきました。第5位の「目標達成のため」第6位の「走力向上のため」はレースタイムや完走などが関係していて、何らかの成長を求める向上心が関わっていると思われます。

RUNNETはレース情報と申し込みがメインのサイトですから、ここでアンケートに答える人はレース経験があるひとばかりだと思いますが、ランニングを続ける人の多くは、健康や体力維持のためだけはく、自分自身の進歩・進化というものを念頭に置いていると思います。私もまた、ご存知の通り、レースタイムを上げて自分が進歩していくことに楽しみを見出しています。


ランニングをやめる理由

●上り坂世代(若者)

ところで、こちらの記事(1年以内にランニングを辞めている人は約7割! その理由は?…デサント調べ)にデサントさんの調査による「6ヵ月以内にランニングをやめた理由」が出ていました。
5位までだけを紹介しますが、下のようになります。

 1位:走ることが億劫になった
 2位:仕事など他のことが忙しくなった
 3位:生活リズムの変化により走る時間がなくなった
 4位:なんとなく走りたくなくなった
 5位:精神的な疲れ

何となくわかりますね。走り始めた人が、走ることに興味をもてなかったのでしょう。
この調査は20代・30代の男女225名を対象に行ったそうですが、まだ人生上り坂な感じの人たちの答えのような気がします。走らなくても他にも楽しみがいっぱいある感じだし、まだまだ他に自分のやりたいことを追求できる余裕がある気がする(笑)。
 
ここからは、統計ではなく私の知人についてのことになりますが、私は、マラソンを始めたもののやめてしまった20代女子を3人ほど知っています。やめた理由は、ひとりは「レースに出てみたが疲れただけだった」、ひとりは「友達(女子)と比べて肌が黒くなっていることに気づいて嫌になった」、もうひとりは、「仲間どうしの付き合いで走っていたのだが、付き合いがなくなってやめてしまった」というものでした。タイムでも楽しさでも、何でもいいから走ることそのものに何らかの意義を見出せないと続かないものでしょうね。

●下り坂世代(中高年)

ランニングを続けていてやめてしまった中高年男性も3人知っていますが、ひとりは60代で「心臓病でドクターストップ」、ひとりは50代で「膝が痛くなりなかなか治らずやめた」、もうひとりも50代で「がんの手術をした」という理由です。中年以上の男性は健康を害してやめるひとが多いです。理由もなかなか切実・・・。走ること自体は続けたいけれど、身体がいうことを聞かないということでしょうね。中高年の女性は、私の周りの女性は皆続けているので、やめる理由はわかりません。


マラソンがもたらすもの

ランニングをはじめるきっかけは、一般的に、「健康」と「美容(ダイエットなど)」についての動機であることが一番のようです。きっかけがあれば、すべて人にランニングへの道が開かれるのですが、相性があり続く人と続かない人に分かれることになります。
若い世代は、家庭を持っていないひとも多く、仕事の能力もまだまだ発展途上。遊びもいろんなことをしたいですから、ランニングを始めるきっかけがあっても長続きするひとは少ないかもしれません。数ある可能性と選択肢の中からランニングを選んで続けるには相性がかなり良くないと難しい気がします。

中高年は若者に比べて、スポーツをはじめるにも選択肢がすくないですし、仕事や家庭についてもある程度落ち着いているひとが多く、健康のことも考えればランニングを続けやすい条件がそろっているようです。
調査結果を見ると、ランニングを続ける理由は「レース出場に向けて」が一番で、健康だけでなく楽しさや達成感、記録の向上など、走ること自体がもたらす結果に強く結びついています。
ランニングというスポーツはシンプルで走れさえすればよく、かつ、速く走れれば記録が伸びて成長できるという意味で、下り坂世代でも簡単に成長を実感できます
「中年クライシス」は、残りの人生に意味を見つけることと関係します。人生の意味を、実生活とは関係ない趣味のマラソンに見出せるかどうかは微妙なところですが、仮に仕事や家庭に意味を見いだせない状況にあったとしたら、ランニングでの成長は中高年にも大きな自信をもたらしてくれることは間違いありません。
また、身体が鍛えられ強くなることで若さを感じられることも、中高年に「まだまだやれる」という希望をあたえることでしょう。
折り返し地点を過ぎた下り坂の人生に新たな意味や使命を見出すことは、ランニングだけでは難しいかもしれませんが、自信を与えるという点からみれば、ランニングが「中年クライシス」を乗り越えるための大きな助けになるはずです。中高年でランニングを始めるひとが多いのは、ここに秘密がありそうです。



 

私は外を走ることが好きです。
ランニングマシーンにもよくお世話になっていますが、天気や気候、街並みの変化が感じられる屋外を走るほうがやはり楽しい。
春や秋は穏やかで心地よい一方、夏や冬は暑さ寒さが厳しく、自分のしていることに疑問に感じることもありますが・・・

走ることが習慣化され、距離が伸びてくると、河川敷や堤防を走ることが増えてきます。川の周りには信号が少なく、遊歩道が整備されていることも多いからです。どんな大都市にもだいたい大きな川があり、川に沿ってはしるコースはランニングの定番ではないかと思います。

普段の生活では、私が外に出て目にするものは、看板やショーウィンドウや道路標識などの記号、人間や自動車、足元の障害物、自然の木々や草花など、半径30m内にあるものです。

ランニングの時は、川の堤防を走ると、一気に視界が開けます。
そして「空」が見えます。

東京に住んでいたころは、スーパーやコンビニの他に、個性的な飲食店や商店があり、どこを走っても刺激が多く楽しかった反面、視界は人工物にさえぎられていました。

"智恵子は東京に空が無いといふ
ほんとの空が見たいといふ・・・"
 
むかし学校で習ったこんな詩を思い出したものです。
(「智恵子抄」高村光太郎)

東京時代は、よく荒川の河川敷を走りました。
「東京にも空があった」と感動したものです。

河川敷にくると、空を見上げるとこも多くなります。
大きな空を見上げることは、精神的にもいいらしいです。
私がランニングを勧めたい理由の一つがこれです。

電車や自動車に乗って会社に行き、屋内で1日を過ごし、帰りは夜になっている。こういう生活では、大きな青空を見ることは多くはないでしょう。

ランニングでなくてもよいですが、週に1度くらいは視界の開けた場所に出てみると気分が変わります。ふと、顔をすこし上げた瞬間に大きな空が広がっていることに気づきます。
日常生活とのギャップが、よい刺激になります。いかがでしょうか。


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