なぜ走る? 文化系レベルランニング

東京マラソン2010にたまたま当選してしまった「読書が趣味」の文化系人間。 それ以来、50歳を過ぎた今も、なぜか走り続けています。 走ることにどんな意味があるのか? 「からだ」「こころ」「グッズ」「レース」「本」などから、走ることについて考える、ランニングブログです。

カテゴリ:文系的に > 考えてみたこと

前回記事で「ゼエゼエ走ること」について書きました。
それで、ふと考えました。ゼエゼエ走る文学はあるのか?

これまでにこのブログでは村上春樹氏のエッセーを紹介したことがありますが(カテゴリー「村上春樹氏に「走ること」を学ぶ」参照)、小説ではありませんでした。「ゼエゼエ走ること」は物語としてはなかなか成り立ちにくい。
でも、走る文学の名作はあります。そう、走るといえば、日本人ならみんなが知ってる太宰治の『走れメロス』

なぜこの物語が有名かというと、教科書によく載っているからだそうです。私はこの作品読んだような気がしますが、はるかな昔のことで、ほとんど覚えていません・・・
内容について知っているのは、「友人を救うためにメロスは走った」くらいの記憶だけ。
つまり、私はこの国民的名作をよく知らないのです。これはいけないと、この機会に、まず『走れメロス』を読んでみることにしました。

『走れメロス』を読んでみた40代後半ランナー

読んでみた結果は、意外でした。
この話、メロスがピンチの友を救うために走った話と思っていましたが、そうではないのです。

救うのですから、友が何らかのヘマ(借金や犯罪)をして、捕らわれの身になってしまい、その友人を救うのに走ったのだと勝手に思っていました。

違いました。とんでもない誤解です。

死罪を言い渡されたメロスは、自分が必ず戻ることを信用してもらうために、一番大切な親友を人質に差し出したのです。期限までに戻らなければ、友は死刑。戻ったら自分が死刑。そんな絶望的状況です。この作品は「親友を救う話」では、まったくないのです。しかも親友を人質に差し出す時点で、もはや「親友」かどうかも疑わしいです。が、まあ、それは置いておきます。

ところで、私はこの作品の登場人物たちの人間関係やその心理の分析をしたいわけではありません。
知りたいのは、メロスの走りです。昨者とっては「走ること」よりも他のことが大事かもしれません。しかし、私は「ランナーとしてのメロス」にしか興味がありません。必死で走るときの人の有りようを知りたいのです。なので今回は、ランナーとしてのメロスにとって重要だったことだけを見ていこうと思います。

メロスはどんな走りをしたのか?

『走れメロス』の主人公メロスは、シラクスという街から故郷までの10里の道を往復します。自分の身代わりに人質となった親友を、残虐な王様から解放するためです(走りとはこの辺りの状況の説明も省略)。

10里はだいたい40km。フルマラソンの距離くらい。
帰りも40kmで計80km。この往復80kmを3日間で行えばいい。距離だけなら大して難しくありません。フルマラソン完走したことがあるランナーならそれほどではないです。

しかし、この40kmの道のり、どうやらフラットではありません。「ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり」とあります。
」があるのです。
メロスはトレランをしていたのです。

トレランの40kmは、フラットなマラソンに比べて体力的にかなり厳しくなります。時間も倍増する可能性もあります。山の標高や高低差、道の険しさについては書かれていないので、どうなのかわかりませんが、普通のマラソンコースよりはずっと難しいはず。

故郷に向かう「往路」は、深夜にシラクスの町を出て一睡もせず翌日の午前に故郷に到着。徹夜でランニングはなかなかハードですね。

故郷からの帰り「復路」は、二日後(3日目)の早朝に出て陽が沈むまでに戻らなければなりません。しかし、うっかり者のメロスは妹の結婚の祝宴に参加して寝坊までする始末。とはいえ、休養は十分とれたでしょうし、早朝だったのでまだ時間に余裕がありました。途中、間に合うことが確実になると、なんとウォーキングに切り替えるのん気さです。親友への想いを疑りたくなりますが、これも重要ではありません。

ところが、やはり物語です。豪雨で橋が落ちた川の濁流を渡ることになったり、山賊に命を狙われたりと、走り以上に道中の出来事が困難。しかし、私が知りたいのは、こういった偶発的な事件の顛末ではありません。あくまで、マラソン文学としての『走れメロス』ランナーのメロスなのです。

ランナーとしてのメロスはどうなの?

メロスのランナーとしての力を見てみましょう。
そもそも練習もなくいきなり40kmを走るというのはふつうの人には無理があります。マラソンランナーなら、練習もなく40km走ることがいかに困難なのか知っています。しかも山越えのトレラン。途中歩いたとはいえ、40kmを自分の足で移動するのは途方もない脚力持ち主に見えます。

メロスはその困難をやすやすとやってのけます。けっこうな体力自慢の韋駄天というところでしょう。この走りに加えて、濁流を泳ぎ切り、山賊をやっつけます。トライアスロンに近いかもしれませんが、そんなものではありません。どちらも命がけですから、ストレスも大きい。心身ともにツライでしょう。

しかし、そんなスーパーマンのメロスでも、さすがに、トレラン、洪水、山賊退治で疲れ果ててしまいます。そして、ついには血まで吐いてしまいます
呼吸もできず二度三度、口から血が噴き出た

吐血の原因は何なのかはわかりません。が、もし現代のマラソンやトレランのレースだったら、即中止ですね・・・

物語ですから、もちろん血を吐くのもなんでもありですが、走りすぎて血を吐くというのは、もともとどこか悪かったような気がします。脱水や熱中症で気を失ってしまうというのは現代のマラソンでもあると思いますが血を吐くのはひどい。よほどの重症です。
 それでも走ったメロスは、牧人(羊飼い?)なので足が強かったのでしょう。体力はとにかくある。根性もあります。

「走れメロス」のリアリティ

いきなり40kmトレイルを走れてしまう屈強な男メロス。つくり話のスーパーヒーローに見えてしまいますが、そうではありません。人間的な一面ももっています。

一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。

峠を登り切って、ゼエゼエ呼吸をしてしまうメロス。全文を通して「荒い呼吸」の描写はここだけですが、山をのぼり切り息が上がるこの部分はリアリティを感じさせます。ランナー目線では、血を吐くのはリアルに感じませんが、息が上がるのはリアルっぽい。

ところで、なぜメロスはこんなにゼエゼエ走るのでしょうか?それは親友を裏切らないという信念があるから
この信念こそが、メロスの走りの原動力です。箱根駅伝でタスキをつなぐ選手の責任感にも似ています。この作品が教科書に載るのは、この辺りを学んで欲しいからでしょうか?

この物語にリアリティを与えるものがもう一つあります。それは、メロスの心に生まれる「葛藤」です。

濁流の川を渡り、山をのぼり、山賊と戦うと、さすがのメロスも疲れます。ここに午後の暑い陽ざしが メロスにふりそそぎ、意識をもうろうとさせます。
この肉体的な疲労の極限で、勇者メロスが悪い気を起こしかけます。
濁流と山賊を全力で切り抜けた自分を、よくやったと言い、自分を誉めます
ほかの人間ならできないようなことを自分はやった。だから、たとえ完走できなくてもよいだろう、と考えます。全力は尽くしたという言い訳。人間的、あまりに人間的。

この人間的な葛藤が私にはよくわかります!わかりすぎるほどわかるのがツライ(笑)
私はフルマラソンに参加すると途中でこういう葛藤によく出会うのです。「練習は限られた時間の中で精一杯やった。普通のサラリーマンは、マラソンなんかやらない。フルマラソンに参加しているだけでもすごいことだ」こんな言い訳が浮かんでは消え、レース途中で歩くことや棄権することを考えるのです。

もっとも、私はマラソン大会はよほどのことがない限り完走はします。しかし、途中で苦しくなったり足が痛くなったりすると、続けるか、棄権するかで心に葛藤が生じるのです。これもリアルです。マラソンレースの心理のリアル

メロスが走り切ったのは、親友からの信頼

私のような普通の市民ランナーも、マラソンでは苦しい思いをします。それでも完走できるのはメロスほど苦しくないからです。
また、前回書きましたが、「自己ベストを出したいという欲」と、「ライバルに勝ちたいという欲」。この2つの欲によって、ふつうのランナーが、マラソン大会でゼエゼエ走ってしまうのです。そして、私もまた、欲をベースにしてマラソンのゴールを目指すのです

一方、メロスは親友を人質に差し出す「ろくでなし」ですが、すでに書いたとおり、血を吐くまで走って親友との約束を守りました。メロスが葛藤を乗り越えて、予定時刻に間に合ったのは、自分を信じて待つ親友を裏切らないためです。

普通の市民ランナーは欲を力に走るので、意外と簡単に自分の目標となる自己ベスト更新を諦めてしまいがちです。

レースで自己ベストを出したい気持ち。その先には何があるのでしょうか?
自己ベストを出せばマラソン仲間に自慢できます。しかし、その程度の欲だから、血を吐くまで走ろうとは思えません。自己ベストを諦めて簡単に歩いてしまうでしょう。
それとも、自分に勝つことでしょうか?自分に勝つことを自分に約束しても、たいていの人は負けてしまうのではないでしょうか?ダイエット情報の氾濫をみれば、自分自身への約束が当てにならないことはよくわかります。

走れメロスの命がけの走りから学んだこと

マラソンでもなんでもそうですが、今の目標の先にあるものを見据える必要があります。それが他人に自慢したい程度の欲であるのなら、意外と簡単に諦められるし、実際に諦めてしまいます。
自己ベスト更新をより確実なものとするためには、メロスの信念のようなもっと大きな目的が必要かもしれないのです。

大切なひとからの信頼を裏切らないように走る。ふつうの市民ランナーがマラソン大会にこんな気持ちで参加することはほとんどないでしょう。とはいえ、大切な人との信頼や約束にこたえようという気持ちは、人生の大舞台で成功するための動機としてはとても強いものになりますし、苦難を乗り越えるためのエネルギーにもなるはずです。

『走れメロス』は物語です。メロスの走りは、超人的で、やや現実離れしています。しかし、メロスを完走へと導いたものは、その体力ではなく、大切な人への思いと相手からの信頼なのです。
ランニングは体力だけでなくメンタルも大切です。信念があれば、苦しさと葛藤を乗り超えて自分の力以上の力を発揮し、自分のマラソンを走りぬくことができる。こんなテーマを、マラソン文学としての『走れメロス』から今回私は読み取りました。

自己ベストの向こう側を目指して走る。ここにこそが、走り続けることの新しい可能性があるような予感がしています。

以上、40代後半ランナーの読書感想文でした。

先週末、久しぶりに森林公園でランニングの練習しました。

次のレースの準備が目的でしたが、この練習にはそれ以上のもっと大切な意味がありました。

生活疲れ解消ランニング

おそらくどんな人でもそうだと思いますが、生きていると「何だかやる気が出ないとき」ってありますよね?

私は先週がそうでした。
何だかぼんやりしていて、それでいて他人がやることに腹が立ったりして、「なんなんだこいつは!」と苛立っていました。

私はもう40代も後半ですので、同じような経験を何度も重ねています。そういうイライラがどこから来るのか、何となくわかりました。
ストレスが蓄積しているのです。どこかで、この負債を解消する必要がありました。

自然の多いところでランニングでしてみる

今回に始まったことではないですが、ストレス解消にはけっこうランニングが効きます

ただし、どんなランニングでもよいわけではありません。私の場合は、ジムでトレッドミルで走ってもストレス解消になりません。レッドミルは人口の機械ですし、空間の移動もない。トレッドミルは逆にストレスとなってしまうこともあります。

なので、今回は自然の木々が多い場所を選びました。
頭を整理したいこともたくさんあったため、一人で走ることにしました。

かと言って、トレランというほどでもない

自然を走ることを考えたとき、山までいってトレランしても良いかな、とも思いました。
山道をいけば、さらに自然のパワーが感じられてとてもよいです。

しかし、問題は、山には何かと危険が多いということです。集中力がないと、転んだりするので気が抜けません。
そうなると「頭の整理」の部分で、これまでの状況を振り返って今後のことを考えることなどできなくなってしまいます。

自然を感じつつ、頭を整理しながらストレス解消。そうとなると、森林公園など、ある程度安全が確保された「人工的に整備された自然」がよいのです

ゆっくりと自分のペースで走る

朝6時起床。日曜の朝に早起きするのは辛いですが、走ってストレス解消することに決めていたため、意外とすんなり起きることができました。モチベーションが大事です。

朝の7時半に森林公園到着。外は寒い。
森林地帯は市街の住宅地より気温は低目。

まずコンビニで買ったコーヒーを飲みつつ音楽を聴く。
こころの準備をしっかりとしておけば、寒さに対する抵抗感は薄まります。
気楽に支度を始めて決して急がない。

8時過ぎにスタート。公園内をゆっくりと走りました。
体は思ったよりも軽い。
一週前には袋井マラソンで42.195kmを走ったので、体が走ることに慣れたようです。ランニングも遠ざかってしまうと、体が重くなった特に動き出しがつらくなります。
でも、今回は全然問題なし。我慢して完走した甲斐があったというものです。

ランニングで身体に問いかける


無理をせずに、体が疲れるまで走る

うまく言えないのですが、これまでの経験上、自分のペースで疲れるまで走るのが一番ストレス解消によいです。
速く走ってゼエゼエというのも、終わったあとに爽快感があります。
が、頭の整理という点で、考えながら走ることができません。苦しすぎます。

あくまでも、自分に心地よいペースを維持しながら、今のことを考える。
私が考えたのは、仕事のこと、家族のこと、お金のことといった現実的な問題。
走っていると当然、体の使い方やトイレについても考えたりするので、思考は中断します。それはそれで構いません。

重要なことは、自然にまた考えます。スマホもテレビもありませんから、中断しても考えていたことにすぐに戻ることができます。

否定的な感情をランニングでリセット

ランニングでストレス解消をするときに、何より良い点が否定的な感情のリセットできることです。

走っていると、他人からの理不尽な言葉を思い出して、怒りが湧いたりします。
そこで怒りの勢いを借りてペースを上げてみると、息が上がって怒りの感情が消えることもあります。
しかし、もっと大切なのは次のことです。
走り続けて体が疲れてくると、最終的には、昔の嫌な出来事などいちいち考えていられなくなる

会社や学校で何か嫌なことがあっても、走ることで否定的感情が消去されます。何か深刻な問題があっても、走っているといつの間にか冷静になっています。感情が消えた後は解決策を考えるなど、ポジティブなれることも。

「23km、約3時間」でスッキリしました

走ることで気持ちをリセットする。
自分の体に心地よいペースで走りながら、ストレスの原因となっている否定的感情と向き合う。怒りや悲しみが起きても、否定せずにそれを感じながらただ走ります。
そんな風にして、自分と対話していくのです。やがて体が疲れてきて、脳の状態も変わり、走る前のストレスは軽くなっていることでしょう。

結局、私は約23kmを3時間ほどかけて走りました
ひとり黙々と走り、足もまあまあ疲れました。途中で靴擦れが起きたので、走りに気を使いましたが、痛むこともなく「もういい」と思うまで走り切りました

友人に電話して飲みに出る

いろいろとすっきりしたので、しばらく連絡をとっていなかった友人に電話して、夜久々に飲むことにしました。何となく停滞しているときは、やる気も出ないし人と会うことも億劫(おっくう)になりますが、走ったことでそんな精神状況も改善しました。

その夜は、久しぶりに友と酒を酌み交わしました。気持ちよく楽しく過ごし、ほどほどに飲んで帰宅。
家では、スマホなどはいじらずに風呂に入ってすぐに就寝。
久しぶりに7時間ぐっすり眠ることができました。よく眠れるのもランニングの長所のひとつですね。

走ることは人間に与えられた偉大な能力である
こんなことを改めて感じた1日。
ランニングができることに感謝。本当はストレスがない生活がいいんですけどね。

 

今日のお題はかなりセンセーショナルなので驚いた人も多いことでしょう。
しかし、私はいたって真面目に書いています。
なぜなら私は走り出すと、まあまあおならが出る派だからです。
カミングアウト!

レース中のおなら劇

こんな記事を書いているのには理由があります。
先日の「袋井クラウンメロンマラソン2018」でかなり派手にやらかしている50代後半とおぼしき男性ランナーがいたからです。坂の多い袋井マラソンで、下り坂でブーブーやってました。 足が着地するごとに「ぷっぷっぶ」と良いテンポ。下り坂で脚の回転が速いためか、テンポも軽快でした(笑)

しばらくすると、ちがう40代後半くらいの男性が、同じようにテンポよくブーブーやってました。こちらは、鏡のごとく反射するサングラスをかけて、ファッションがキマッていたので、おならとのギャップが痛快でした。

私はこれまで様々なレースに出場し、たくさんの「おならンナー」たちと出会ってきました。出会ったレースはひとつやふたつではありません。あんなおなら、こんなおなら、色んなおならを聞いてきました。いい思い出です。いかにもな人がおならすると、おならが似合う人だな、と感心します。


女性はランニング中にしない?

ところで、私は女性の「おならンナー」に会ったことがありません。女性だっておならはします。だって人間だもの(相田みつを風にw)。女性はどうしているのでしょうか?

一方、「おならンナー」率がダントツなのはオジサンです。私もそんなオジサンの一人ですが、ご多聞にもれず、走るとけっこうおならします。オジサンに「おならンナー」が多いのは、「気にせずに出す人が多いから」ではないかとにらんでいます。(たぶん正解)

女性はももちろんおならが出る。たぶん出るけど、我慢しているか、絶対に聞こえない安全圏に入ったときにだけしているだと推測します。


走るとおならが出るものではないか? 

さっさく、ググってみました。
ランニング中におなら出てますね、皆さん!

例えば、ヒットしたこのヤフー知恵袋の記事にはある女性のランニング中のおならの悩みがでていました。そう、やっぱり、女性も出しているのです!

ただし、やり方がオッサンやジイサンよりも巧妙なのですね。「夜陰に紛れて」という言葉がありますが、車の騒音に紛れさせていらした(笑)。


なぜ走るとおならが出るのか?

これまで「ランニング中のおなら」について考えたことはありません。ランニングとは関係ないと思っていたからです。でも、先日の袋井マラソンで気づきました。みんなオナラをしているという事実に

ランニングをしていれば、のども乾くし、足やお腹もいたくなるもの。おならもランニングにはつきものなのかもしれません。


走るとおならが出る仕組みは?


またググってみました。

こちらのブログでは、「脂肪が燃焼するとおならになる」、などとうれしいこともおっしゃってます。走りながらおならが出るのは、「もしかして脂肪が燃焼しているかも」と思えば、憎いおならもかわいく見えてくるというものです。 

一般的な説では、「走ると腸の蠕動運動が刺激されて、内部のガスも排出されやすくなる」、あるいは、「走っていると空気を飲み込み、肺ではなく胃腸に空気が回ってしまいオナラになる」というようなものがありました。


レース中のおなら臭のゆくえ

レース中に「おならンナー」によく会いますが、外では臭いがしたことはありません。たぶん、外を走っていると、臭いが拡散してしまうからです。

オナラで不快なのは臭いですが、レース中はほぼ臭いません。だから、おならンナーの皆さんは、レース中はそんなに気にせずに出しても良いのではないでしょうか。

しかし、もしこれが屋内のトレッドミルで走っていたなら、「音」にも「臭い」にも気を付けたいところです。私はまだ恥じらいあるオジサンですので、ときどきトイレに「ガス抜き」にいくこともあります。音は騒音でごまかせるとしても、においはしばらく周辺に残っている可能性もあります。

一方、たとえレース中であっても気を付けたいのが、胃腸の調子が本格的に悪い場合です。気がつかず走り出したけど、実は下痢気味だったということもあります。おならと思って出したら・・・という恐怖体験もあり得ます(笑)。



今回は走ることとは直接関係ない話でしたが、ランニングは全身運動。脚、腕、体幹といったトレーニングに関することだけでく、内臓にまつわることも走ることには大いに関係があります。
たかがおなら、されどおなら。最近、すっかり胃腸が弱くなったオジサンランナーの考察でした。

↓こんな薬もありますので、気になる人はお試しあれ。





ようやく軽く走れるくらいまで、体が復調してきました。
振り返ってみると、走ることはおろか、満足に動けない状態がありました。
そんなとき、自分の身体について知らなかったことに気づき、それまで走れていたことの意味についても考えさせられました。


「走る時間」が「読む時間」に変わる

病院のベッドで動けないときにしていたことといえば読書でした。
病室に持ち込んだ数冊の本に一日の時間の多くを費やしました。
動けない生活が数日続くと、走ることに対する関心が薄くなります。自己ベスト更新を目標に頑張っていたころは、本やネットから「走ること」についての情報をたくさん取り込んでいましたが、ベッドで寝てばかりの生活では、走りの情報にも興味がなくなっていました。

ここで気づいたのは、身体が動かなくなるだけで、時間の使い方がかなり変わってしまうということでした。特に、スポーツが習慣になっている人は動けなくなれば、それまで身体の運動に費していた時間が、身体以外の活動の時間へと置き換わることになります。


「走る」と「読む」に必要なもの

走ることと読むことには、必要とするものに違いがあります。

当たり前のことですが、「走るとき」は身体活動がメインとなります。一方の「読むとき」は、その時間のほとんどが知的活動に費やされます。
走るときに身体を動かすことを止めれば、走ることができません。読書のときに、知性が働かなければ、単なる音読の発声練習と変わりません。
走るときは身体の動きが必須で、読むときは知性が必要となります。

また、走るときには、転倒の危険があるため、周りの状況に意識を向けます。逆に読書では、周りの状況に気をとられれば本の内容が理解できないので、本のページに意識を集中します。


「走る」と「読む」の共通点

人間の活動として、かなり違っている「走る」と「読む」という行為ですが、共通点もあります。

走るときは、脚の動きによって空間を進みます。外を走れば、「自宅から公園まで」というような移動が必ずつきまといます。これに対して、読むときは、視線が文字を追うにつれて必ずページが進むことになります。
走ると読むの共通点は「進むこと」です。(走る時は空間(移動距離)、読むときはページが進みます)。

「進むこと」にはスピードの速い・遅いが関わることがあります
。そして、「走ること」も「読むこと」のどちら場合も、スピードが速いと、世間で良い評価を受けるようです。脚が速いと賞賛されます(世界一足が速ければスーパースターです)。読むのが速いと、いろんな知識が増えますから社会的に成功しやすい。

しかし、読むという行為には「理解」が伴わなければなれません


「読む」という行為の意味

スピードという視点からみると、読書については速読というものが思い浮かびます。速読の達人ともなると、300ページもあるような本を10分くらいで読み終えてしまうようです。しかし、読書には「内容の理解」が求められます。どんなにたくさんの文字を目で追っても、その言葉の意味を正しく理解できないのならその読書にはほとんど価値がありません。読むという行為には「深さ」も求められるのです。
 走ることについてはどうでしょう?走る速さのほかに、フォームの美しさなどが語られたりしますが、読書にあるような理解の深さが価値の対象になることはありません。「あのひとの走りは深い」というようなコメントは聞いたことがないです。


「深い走り」を目指したい

こうして「読むこと」と「走ること」を比べてみると、今世界中で行われている走るという行為には深さが欠けているということがわかります。
しかし、走ることの深さとは...一体何のことなんでしょうか?(笑)

読書の深さが、本の内容の理解の深さであるとするなら、走ることの深さはランニングとその身体についての深さのような気がします。
走るという行為の意味が、人々にもっと理解される時に、「深い走り」というものが生まれるのでしょう(それがどういうものか想像がつきませんが...)。

私の走るスピードはそれほど速くありません。なので、私は死ぬまでに「あの人の走りは深いなあ」と感心されるような深いランナーになることを願っています。

『哲学者が走る: 人生の意味についてランニングが教えてくれたこと』(マーク・ローランズ著)という本を読んでみました。

著者はアメリカの大学で哲学を教えるイギリス人の教授です。
哲学の教授だけに、私が今まで読んだランニング関係の本を中では、「走ること」について最も深く・広く考えています。
ちなみに、この本の中でローランズ教授は、私がランニングの心の師と仰ぐ村上春樹氏についても言及しています。

今日はこの本を読んで、私が「走ること」の本質について考えさせられた一節をご紹介します。


走ることと、空間移動すること

ランニングでは、目標はAからBに移動することあるいは自宅からスタートする場合にはAから初めてAに戻ることである。この前置きの目標を達成するにはドライブ、徒歩、サイクリングなど様々な方法がある。
事実、目標がAからAの場合には、そのままそこにいるだけでもすむ。

私はこのブログを書き始めてから、走ることの意味について考えるようになりましたが、「走る」という行為が空間を移動することを前提にしていることについては当たり前すぎて、それについて深く考えることはありませんでした。しかし、この文章を読んだときに考えさせられました。

著者は上の文から、ランニングは「ゲーム」であり「遊び」であることを説明していきますが、私はむしろ走ることと空間移動に目が向きました。
 
私がいつも使っているランニングマシン(トレッドミル)は、どうなるのか?、と。


ランニングのコペルニクス的転回

かつて、走ることは空間を移動することを前提としていました。
しかし、室内で走るための道具であるトレッドミルが生まれ、空間を移動せずに走ることができるようになりました。
技術の進歩により、走るという行為は、空間の移動を前提としなくなったのです。

では、トレッドミルはなぜ空間を移動せずに走れるかというと、空間の代わりに地面の役割をするベルトが移動してくれるからです。ランナーの動きは、空間移動に代わりベルトの回転運動に置き換えられます

「自分が動くか、それともベルトが動くか」というこの変化は、「太陽が地球を回るのか、それとも地球が太陽を回るのか」、というかつての天動説と地動説の違いを思い起こさせるものです。トレッドミルの登場は、まさに、ランニングのコペルニクス的転回といえるでしょう。


空間を移動するランニングの場合

トレッドミルは、新しい技術による「動く地面」の発明であって、動かない地面をベルトによって動かし、本来なら身体が被る空間移動をなくしてしまいました。
しかし、トレッドミルは特殊な例で、通常は地面が動かないため、ひとが走ると普通は空間を移動することになります。

空間を移動するときは、引用にあるように「A地点から違うB地点に行く、あるいはA地点から同じA地点に戻る」ことになります。

ローランズ教授はこれについて、"目標がAからAの場合には、そのままそこにいるだけでもすむ”といいます。

ゴールとスタートが同じならば、走っても走らなくても(移動してもしなくても)一定時間の経過後に同じ場所にいれば結果は同じ。走るということは、空間移動が目的ではないということなのです。
走るという運動は本来、空間移動を前提としますが、それは走ったことの結果でしかありません。

走ることで空間を移動しますが、走ることは移動そのものが目的ではないということです。


マラソンは何を目的とするか?

マラソンレースは42.195kmを移動します。
マラソンは走る競技なので、この距離の移動は前提となります。
しかし、同じ距離なら何でもいいというわけではなく、走ることは人間の足で行い、かつ、同じレースならば、決められた同じコースを参加者全員が走るということになります。

恐らく、マラソンのルールでは走ることを強制してはいません。ゴールのタイムを参加者が競うため、より早くゴールにたどり着くため、あるいは、制限時間内に完走するため、全員が結果的に走るということになるようです。

マラソンは、同じコースを人間の足で移動し、なるべく早くゴールするのが目的のゲームということでしょう



今回は走るということについて少しだけ哲学的に考えてみました。
レースのシーズン中には、こういうことは考えません。シーズンオフいうことですね・・・