なぜ走る? 文化系レベルランニング

東京マラソン2010にたまたま当選してしまった「読書が趣味」の文化系人間。 それ以来、50歳を過ぎた今も、なぜか走り続けています。 走ることにどんな意味があるのか? 「からだ」「こころ」「グッズ」「レース」「本」などから、走ることについて考える、ランニングブログです。

カテゴリ: 体育会系と文化系

今年初めてのランニングは1月3日に行いました。
2月末の「静岡マラソン2019」に向けての30km走。1月の朝はやっぱり寒かった!


なぜ真っ暗の冬の朝に出てゆくのか?

普通の感覚からすれば、正月3日の早朝に走りにいくのは、尋常ではありません。お正月にわざわざ走るのは、箱根駅伝の選手くらいだろうと思うでしょう。
しかし、私のような大して速くないランナーでも、正月3日に走ったのです! 


正月の練習はやっぱり辛い

大抵のひとは、お正月休みはのんびりしています。そう考えると「たかだか趣味のマラソンのために正月の早朝から走るとは一体何ごと?」と思ってしまいます。

それに1月の朝は寒い!とても寒いから起きるのがツラい。ただただツラい。朝の5時台だと暗いからなおさらツラい。

さらに、冬の暖かいふとんは気持ちいい!気持ちいいから布団から出たくない。

正月、寒さ、暖かい布団。この三つが正月休みの朝のランニングを難しくしています。


辛くても正月に走りにいく理由

正月の朝のランニングはツラい!でも、私は出かけて行きました。その理由は3つ。 

まず1つ目の理由は、レース。私は「静岡マラソン2019」(2月24日開催)にエントリーしています(「静岡マラソン」公式サイト)。この大会は良いタイムが出やすいので、練習で自己ベストが狙えるような走力をつけたいのです。 

2つ目は、自分に勝つということ。これは精神的な目標みたいなものです。趣味とは言え、いい加減にやると、仕事や人間性に関わる部分に影響が及びそうです。己に勝つなどというと、体育会系な感じがしますが、私もマラソンを続けているうちに体育会系になったのかもしれません。

3つ目は、習慣づけの練習。2つ目の理由と関係しますが、自分がどんなに厳しい状況に置かれても、立ち向かう習慣を身につけたいと私は思っています。自分に勝つための心構えを常に持っていたい。
苦しいことは避けて通りたいものですが、日本の未来は厳しそうです。もし困難立ち向かうことを「習慣化」できれば、厳しい世の中になっても順応できます。


良い習慣を身につけたい

この3つ目の「習慣化」については、『人生を変える習慣のつくり方』(グレッチェン・ルービン著)という本の影響がありました。

この本で、「よい習慣はそれ自体がご褒美」という言葉を見つけて、なるほどと思いました。
「何かできたら自分にご褒美」にしてしまうと、目的の何かよりもご褒美が目的になってしまい続かないそうです。困難に立ち向かう習慣を得ること、それ自体がご褒美だと考えられるのは素晴らしいことのように思えたわけです。

もしかすると、何か間違ってるかもしれませんが、とりあえず冬の早朝ランニングのモチベーションの一つとなったので、この本を読んで良かったかなあと、思っています。

私の意志はふつうの人間よりもかなり弱い。だから、意志ではなく習慣によって難しい状況を切り抜けられるようにしたいなあ、などと思って冬の早朝ランニングをしているというわけです。

ランニングの成果をランニング以外に広げて行きたいですね。

先日、自分のマラソン練習について、仕事仲間の女性と話していたら「すっかり体育会系の生活ですね」と言われてしまいました。

体育会系!?

まさか自分が体育会系と言われるとは思ってもいませんでした!


私の生活が体育会系になった理由

つい最近まで、フルマラソンの自己ベストを狙う日々が続いていたため、練習量が増えていました。
週末に30km走や40km走を行い、平日には週に3日は10km走っていました。

私は「文化系ランナー」を自称しているくらいですから、体育会系とはほど遠い人間だと思っていたのですが、マラソンの練習を続けるうちに肉体的トレーニング中心の生活になっていたようです。
自覚が乏しいのが怖いところですが、普段それほど運動をしない人にとっては、30km、40km走るなんてことは、普通のことではないのは確かです。

本命レースで自己ベスト更新することで頭がいっぱいになっていたため、こんな生活を続けていたのですが、マラソンをしないひとにとっては普通ではないですね。


自己ベストを更新したいという欲

なぜ、こんな体育会系の生活になってしまったのかというと、一番の原因は、自己ベスト更新などの記録を狙うようになったからです。
簡単にいうと、「欲」が出てきたということですね。
自己顕示欲なのか、承認欲求なのか、細かいところはよくわかりませんが、自己ベストを更新することには、何らかの欲が関わっていて、その欲を満たすためにいつの間にか、生活の習慣までも変えてしまうということなのです。

しかし私は、「体育会系」に対してわざわざ「文化系」を気取るくらいですから、そんなに必死で練習しなければならない目標など立てずにやれば良さそうなものですが、より早く走りたいという欲が一度現れると止まりません。特に、文化系の人間は運動神経があまり良くない人が多くて、自分にも運動ができるとわかると舞い上がってしまうところもあります。悲しい性ですな・・・


黙々とやり続けるというシンプルな方法

ところで、世間一般でいう「体育会系」ということばには、組織の上下関係の厳しさを表すこともあります。「あの会社は体育会系だから上下関係が厳しい」などという場合で、上の人間の命令は絶対で下の人間には逆らうことができないという意味です。こういう意味での体育会系のノリは私にはありません。しかし、「やれと言われたことはつべこべ言わずにすぐに実行する」という意味でなら、このノリがないわけではない。

長距離走は根性と粘りがモノを言う部分が大きいです。そうすると、あきらめずに練習を続けることに意味が出てきます。体育会系のノリが「やるべきことをつべこべ言わずに黙々とやり続ける」という言葉に変わり、走ることが中心の生活習慣に変わっていく。そういう意味では、文化系ランナーの私の生活も体育会系的であると言えそうです。
つまり私は現在、体育会系的文化系ランナーです。なんのこっちゃ。


 

「体育会系」という言葉を時々耳にするかと思いますが、「体育会」と聞いてどのくらいの人がピンとくるでしょうか?

体育会とは、かなり簡単にいうと日本の大学が運営する運動部のことです(応援団なんかも入るかもしれません)。大学名で公式に大会に参加する場合、大学名で戦いますが、例えば「早稲田対慶応」という場合は体育会所属の選手たちが戦います。大学にはその他に、運動部系のサークルがありますが、大学とは関係なく好き勝手にやっているものがほとんどです。 飲み会や合宿と称した旅行がメインのスポーツ系サークルなんかは体育会ではありません。中には、体育会ではなくとも大学に認められて「公認」となるサークルもあるようですが、これはスポーツ系・文化系の違いは関係ないでしょう。

この「体育会」にある文化・伝統とその気質みたいなものは、スクールカラーや強い弱いの違いはあっても、どの大学の体育会にも共通するものがある。この特徴を「体育会系」と一括りにして呼び、軍隊式の厳しい上下関係、限界までトレーニングを行う根性論、頭よりは身体、考えずすぐに行動する単純明快さなどを表します。
ウィキペディアでは「体育会系」の項目でいろいろと解説していますが、読んでみるととても面白いので一読をおすすめします。ウィキペディア「体育会系」
 

ところで、 タイトルに「文化系」という言葉を使っているこのブログですが、だいたいの意味は分かってもらえていると思いますがいかがでしょうか?

ウィキペディアでは、体育会を次のように定義しています。

"体育会系(たいいくかいけい)とは、大学などの課外活動の分類の一つ。転じて、それらに属する人々やその性格・気質の総称。反対語は文化系。"


文化系は実際に存在する「体育会」の特徴である「体育会系」という言葉の反対語に過ぎず、そこに「文化会」といった実体はありません。
このブログのタイトルの「文化系」という言葉は、文化部のひとは運動が駄目な人が多くて、走ることがそもそも苦手という「文化部」にありそうなイメージを下敷きにしています。ランニングというものは、そもそも運動だから運動部に所属するような人が得意で、文化部のひとは苦手。つまり、「文化系レベルランニング」の意味は、運動が得意ではない人が行うレベルのランニングということです(今さらの解説、遅くなりすみません)。

突然こんなことを書いてみたのは、長いこと走ることを続けていくうちに、自分の気質が少しずつ体育会系に傾いてきているような気がするからです。これが良いのか悪いのかわかりませんが、今後は自分の変化をより注意深く観察していきたいとおもいます。
 

↑このページのトップヘ