なぜ走る? 文化系レベルランニング

東京マラソン2010にたまたま当選してしまった「読書が趣味」の文化系人間。40代半ばを過ぎた今も、なぜ走り続けているのか? 走ることの意味を問い続ける平凡なランナーが、身体や心理のことからグッズ、レース、書籍のことまで幅広い視点から展開する、一味違うランニングブログです。

カテゴリ:文系的に > 村上春樹氏に「走ること」を学ぶ

先日、静岡マラソン2017での走りをこちらでレポートしました。
その時に少し触れましたが、「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んだことが、静岡マラソンの28kmで失速した後も、粘ることができた一つの大きな理由となりました。

今回は粘りの走りを教えてくれた同書の第6章について書いてみたいと思います。


第6章のタイトル

次のようになります。

"1996年6月23日 北海道サロマ湖
「もう誰もテーブルを叩かず、誰もコップを投げなかった」"


今回のタイトルにサロマ湖が出てきます。サロマ湖と言えば、ウルトラマラソンの大会が有名ですから、このタイトルから村上氏が大会に参加したことは想像がつくでしょう。この章の内容は、村上氏が1996年に出場した「サロマ湖100kmウルトラマラソン」のレポートです。


サロマ湖100kmウルトラマラソンはこんな感じ

村上氏はこんな風に大会を紹介しています。
サロマ湖100キロウルトラマラソンは、毎年6月に梅雨の無い北海道で行われる。北海道の初夏は気持ちの良い季節ではあるが、サロマ湖のある北部に本物の夏が訪れるのはまだまだ先のことだ。スタート時刻の早朝は特にしんしんと冷える。身体を冷やさないように十分に厚着をしていかなくてはならない。日が高く昇り身体が徐々に暖まってくると、まるで変容を重ねて成長していく虫のように、ランナーは走りながら着ているものを一枚一枚あとに脱ぎ捨てていくことになる。
ウルトラマラソンには私は参加したことがありません。なので、実際にどんな様子かはわからないのですが、早朝から夕方まで走るようですので、気温の変化が大きいことは想像がつきます。
朝は寒くて午後になれば暑くなる。ランナーは着ていたもの脱ぐことになりますが、それだけのことををこんな風に豊かに表現できるんですね。たぶん実際の状況はもうちょっと殺伐としていると想像しますが・・・



身体にトラブル発生

村上氏がウルトラマラソンに参加したのは、この時が初めての経験でした。100kmというのはとんでもない距離ですから、当たり前のように身体に問題が起こります。村上氏はレース半分位で足がおかしくなりました。

しかし足は動き始めたものの55キロ休憩地点から75キロまではとんでもなく苦しかった。緩めの肉挽き機をくぐり抜けている牛肉のような気分だった。前に進まなくてはという意欲はあるのだがとにかく身体全体が言うことを聞いてくれない。車のサイドブレーキをいっぱいに引いたまま坂道をのぼっているみたいだ。身体がバラバラになって、今にも解けてしまいそうだった。オイルが切れ、ねじがゆるみ、歯車の数が違っている。スピードは急速に落ちていって、後ろから来るランナーに次々抜かれてた。七十歳くらいの小柄な女性ランナーにも抜かれた。「頑張ってね」と彼女は僕に声をかけてくれる。参ったな、これいったいどうなるんだろう。あとこの先40キロもあるというのに。

この身体の状況はまさしく私の静岡マラソンの28kmからゴールまでの感覚と同じです。残り14kmもあると思ったらガックリきました。
しかし、身体の不調もこんな風に表現できるとは驚きです。


苦しい時の村上春樹流の対処法

村上氏は、この55kmから75kmをどう乗り越えのたか?
ちょっと長いですが、この部分を引用してご紹介します。
いずれにせよ、なんとかかんとか、この苦痛に満ちた20キロを食いしばってしのいだ。ありとあらゆる手段を用いてやり過ごした。
「僕は人間ではない。一個の純粋な機械だ。機械だから、何を感じる必要もない。前に進むだけだ」
そう自分に言い聞かせた。ほとんどそれだけを思って耐えた。もし自分が血も肉もある生身の人間だと考えたりしたら、苦痛のために途中であるいは潰れていたかもしれない。自分という存在はたしかにここにある。それに付随して自己という意識もある。しかし今のところそれらはいわば「便宜的な形式」みたいなものに過ぎないんだと考えようと努めた。それは奇妙な考え方であり、奇妙な感覚だった。意識のあるものが意識を否定しようとするわけだから。でもとにかく自分を少しでも無機的な場所に追い込んでいかなくてはならない。そうするしか生き延びる道はないと、本能的に悟ったのだ。
「僕は人間ではない。一個の純粋な機械だ。機械だから、何を感じる必要もない。ひたすら前に進むだけだ」
その言葉を頭の中でマントラのように、何度も何度も繰り返した。文字通り「機械的」に反復する。そして自分の感知する世界をできるだけ狭く限定しようと努める。僕が目にしているのはせいぜい3メートルほど先の地面でそれより先のことはわからない。僕のとりあえずの世界は、ここから3メートル先で完結している。その先のことを考える必要はない。空も、風も、草も、その草を食べる牛たちも、見物人も、声援も、湖も、小説も、真実も、過去も、記憶も、僕にとってはもうなんの関係もないものごとなのだ。ここから3メートル先の地点まで足を運ぶ――それだけが僕という人間の、いや違う、僕という機械のささやかな存在意義なのだ。
いかがでしょうか?
私は感動しました。
マラソンの途中で身体が動かなくなっても走る。 これは本当に苦しい行為なのですが、村上氏はほぼ哲学的かつ文学的に乗り越えています。文系のランニングです。奇跡です。私の師匠です(笑)
この文章を何回か読んでいたおかげで、私もまた自分の身体を機械のごとく思うようにし、心理的に弱気にならずにすみました。 弱気になったらお終いです。たぶん歩いてしまいます。
この本当にこの文章に救われました。


粘りの走りを突き抜けた!?

しかし、これだけで終わらないのが世界的文学者の村上春樹氏です。
 
こうして我慢に我慢を重ねてなんとか走り続けているうちに、75キロのあたりで何かがすうっと抜けた。そういう感覚があった。「抜ける」という以外にうまい表現を思いつけない。まるで石壁に通り抜けるみたいに、あっちの方に身体が通過してしまったのだ。いつ抜けたのが正確な時点は思い出せない。でも気がついたときには、僕は既に向こう側に移行していた。それで「ああ、これで抜けたんだ」とそのまま納得した。理屈や経過や道筋についてはよくわからないものの、とにかく「抜けた」という事実だけは納得できた。
 
んな風に「抜けてしまった」あと、たくさんのランナーを追い抜いた。75キロの関門(ここを8時間45分以内に通過しないと失格になる)を過ぎたあたりからは、僕とは逆に多くのランナーがスピードをがっくりと落とし、あるいは走るのはあきらめて歩き始めていた。そこからゴールに入るまでに、たぶん200人くらいは抜いたと思う。(...)自分がこのように深い疲弊の中にあって、それを全面的に引き受けた上で、しかもこうして着実に走り続けていられるという事実がそこにあり、僕としては、それを超えて世界に望むべきことなど何ひとつなかった。
 
私は突き抜けることができませんでした。村上氏とは逆に、静岡マラソンではゴールまでに200人以上に抜かれたはずです。そして、私が望んでいたのは、「走り続けていられるという事実」ではなくて、「一刻も早くこの苦しいレースを終えたい」ということだけでした。


そして、「走ること」についての哲学的結論

ウルトラマラソンで悟りの境地に達した村上氏は、そこから哲学的真理にまでたどり着きます。

自動操縦のような状態に没入してしまっていたから、そのままもっと走っていろと言われたら、100キロ以上だっておそらく走っていられたかもしれない。変な話だけれど、最後のころには肉体的な苦痛だけでなく、自分が誰であるとか、今何をしているだとか、そんなこと念頭からおおむね消えてしまっていた。それはとてもおかしな気持ちであるはずなのだが、僕はそのおかしさをおかしさとして感じるとることさえできなくなっていた。そこでは、走るという行為がほとんど形而上的な領域にまで達していた。行為がまずそこにあり、それに付随するように僕の存在がある。我走る、故に我あり。

我走る、故に我あり。
我走る、故に我あり。
我走る、故に我あり。

「我思う、故に我あり」はフランスの哲学者デカルトの言葉ですが、ランナーなら「我走る、故に我あり」の方がしっくりくるのではないでしょうか。
私も走るという行為を長年つづけていますが、とてもこのような真理に到達することはできません。
私が前回のレースで走りながら感じたものは「我苦しい、故に我あり」。情けない・・・(笑)

走りつづけることで、いつか村上春樹氏が見た世界をみることができるかもしれません。
皆さんも目指して見ませんか?
我走る、故に我あり。




●「走ることについて語るときに僕の語ること」 村上春樹著
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村上春樹氏の著作「走ることについて語るときに僕の語ること」について一昨日に書いたばかりですが(こちら)、今日は同氏の新作の長編小説「騎士団長殺し」(第1部 顕れるイデア編 / 第2部 遷ろうメタファー編)の発売日でした。


新作発売のニュースに興奮

私はこの新作については、ニュースで知りました。
村上春樹さん4年ぶり長編小説が発売 午前0時から書店にファン (NHK NEWS WEB)

私は村上氏の小説の熱心なファンというわけではありもませんが、何度も同氏の本について書いているうちに「ランニングの師匠」とも呼べるような存在になっています。そのため、このニュースにはちょっと興奮し嬉しく思いました。

村上氏はすでに68歳です。68歳!(「村上春樹」Wikipedia
もうすぐ70歳です。
この年齢にして長編小説を書いたというのです。
スゴイですね。たぶんランニングの力です。
(詳しくはこちらを。カテゴリー:村上春樹氏に「走ること」を学ぶ )。


書店でパワーを確認

さっそく書店に行って実物を見てきました。
「実物」は、もちろん村上春樹ご本人ではなく、出版されたばかりの本です。

書店に入ると、入口付近に新作が平積みになっていました。なかなかの冊数です。
早速手に取りパラパラで見てみましたが、まず最初の感想はというと・・・重い
ずっしりと重いです。
ハードカバーで第一部と第二部の2巻。一冊約500ページ!
もし良さそうなら買ってしまうつもりで書店に行ったのですが、この重さであきらめました。
(私は最近は基本的に電子書籍購入派です。このサイズの紙の本は正直なところ扱いに困ります。ということで、電子書籍化を待ちます。)

この重厚さを見て、これだけで私は安心しました。
一昨日、老境に達した小説家について同氏が考える「文学やつれ」についてとり上げましたが、この厚さの本を書ける小説家に「文学やつれ」はないだろうと。しかも、なかなかきわどい性描写なんかもあって、活力十分な様子です。さすが私の師匠です(もちろんランニングについての師匠。しかも本を少し読んだだけですけどね)


期待のあのシーンの描写はあるのか? 

さて、村上氏のランニングについての考察から学ぶ私としては、小説の中にランニングのシーンは出てこないかが気になります。(このブログを読む皆さんも同じでしょう。たぶん)
純粋なファンからは非難を浴びそうですが、そんな興味をもって同書を少し拝見しました。
しかし・・・
自分の筋肉と会話しながら走る登場人物の描写は見当たりませんでした。(パラパラみただけですので、実はあるかもしれません。見つけた方はお教えください)。まあ、当然といえば、当然で別にがっかりというわけではないですけどね。
 
ランニングの描写の代わりに、目に留まったのが自動車の名前です。
スバル・フォレスター、ジャガー、プジョーなどです。みんな高そうですね(笑)。登場人物のクラスがわかるというものです。
が、私の興味は自動車ではなく、当然、ミズノとかアシックスとか、ナイキとかアディダスとか、そんな言葉が出てくるかどうか
しかし、というか、やはりというか、今回の小説にはスポーツメーカーやランニングシューズは(たぶん)出てこないみたいでした。当然ですね。はい。


村上作品への私の期待と妄想

「走ることについて語るときに僕の語ること」では、村上氏はランニングシューズについて語っていました。当時は、ミズノを履いていたようですが、今はどうなんでしょう?
私もミズノのシューズをもっていて、それについて語ったことがあります(こちら)ので、その点はちょっとだけ仲間意識のようなものも芽生えていたんですけどね(笑)。

いずれ、私のランニングの師である村上氏には、ミズノを履いた登場人物が(いや、ナイキでしょうかね)、ヨーロッパの森のウルトラマラソンを完走するというような物語を、愛憎を交えて書いてほしいなあ、と勝手に願うのでした。



「走ることについて語るときに僕の語ること」の第5章になります。

第5章のタイトルはこちら。

2005年10月3日 
マサチューセッツ州ケンブリッジ
「もしそのころの僕が、長いポニーテールをもっていたとしても」

また謎めいたタイトルですね。
これは村上氏がアメリカのチャールズ川沿いを早朝ジョギングしたときに、ハーヴァード大の女子大生たちにどんどん追い越されていったという話からとられたものです。金髪のポニーテールの彼女たちを見て、村上氏は昔の自分を思い出し、自分はあんなに自信満々な感じではかったと思うのでした。

まだ失敗の苦い味を知らぬ才気あふれるハーヴァード大の女子大生と、数々の失敗を重ねて経験を積んできた村上氏とのギャップ。この章はここから、年齢とともに落ちていく「体力」についての考察が始まります。


年齢による衰え

私もまた40代半ばになり体力の衰えを日々感じています。筋力や持久力だけなら、20代のころよりもあるかもしれませんが、そういう鍛え方次第でどうにかなる部分ではなく、疲労や回復力などの身体の基本的な部分での衰えを感じてしまうのです。

小説家である村上氏は、体力の衰えと作品についてこう語ります。

若い時に優れた美しい、力のある作品を書いていた作家が、ある年齢を迎えて、疲弊の色を急激に濃くしていくことがある。「文学やつれ」という言葉がぴったりするような、独特のくたびれ方をする。書くものは相変わらず美しいかもしれない。またそのやつれ方にはそれなりの味わいがあるかもしれない。しかしその創作エネルギーが減衰していることは誰の目にも明らかだ。それは彼/彼女の体力が、自分の扱っている毒素に打ち勝てがなくなってきた結果ではないだろうかと僕は推測する。これまで毒素を自然に凌駕していたフィジカルな活力が、ひとつのピークを過ぎて、その免疫効果を徐々に失っていったのだ。


小説を書くことは、"不健康な作業"で、"文章を用いて物語を立ち上げようとするときには、人間の存在の根本にある毒素のようなものが、否応なく抽出されて表に出てくる"と村上氏は言います。老いて体力がなくなると、芸術的創造にある毒素に耐えられなくなり、作品から活力が失われるというのです。

体力が必要なのは、芸術に限ったことではありません。普通の暮らしの中でも、体力は精神に影響を与えます。例えば、ある程度の年齢になって急に性格が丸くなってしまう人がいます。こういう人たちの中には、体力の衰えにより精神的緊張が持続できなくなったケースがかなりあるではないかと思います。


不健康なものと付き合うには

村上氏が目指すものは、体力の衰えが枯れた魅力となるような"やつれた"作品ではなく、活気のある力強い作品だといいます。

真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならない。それが僕のテーゼである。つまり不健全な魂もまた、健全な肉体を必要としているわけだ。

作家が不健康では、「不健康」を表現しきれない。力強い作品には健康であることが必要。
「不健康」を扱うために、自分の健康と体力を維持するというのが村上氏の考えで、これはわかる気がします。


力強い作品をつくり続けるため

しかし、体力の衰えは、どんな人間にも避けられません。
では、表現の毒素に負けた"やつれた"作品を作らないためには、どうするのでしょうか?

そのポイントをーーつまり僕の活力が毒素に敗退し凌駕されていくポイントをーー少しでも先に伸ばせればと思う。それが小説家としての僕の目指していることだ。とりあえず今のところ、僕にはやつれているような暇はない。だからこそ「あんなのは芸術家じゃない」と言われても僕は走り続ける。

そうです。やはり、走ることを力強い作品づくりの基本としているのです。
ここでは、走ることは体力維持のための方法として語られています。単純に体力の問題です。

今回は、「集中力」や「持続力」といった(小説家としての)仕事の技術ではなく、その仕事の基となる「活力」と「健康」を維持するためのランニングです。

走ることについて語るようになると、このブログでもそうですが、段々と専門的で難しい話になってきたりします。やれ腰が落ちるだとか、靴のクッションがどうだとか(笑)。
そういう難しい話の前に、走ることは健康によく体力維持に役立つ。こういう基本的なことを改めて考えさせられました。

健康のため、体力維持・強化のためにも走ることをお勧めします。


おまけ

私も文化系の人間として、昔はどちらかと言えば、走るなんてことはしたくない部類でしたが、それは不健康さにある種の魅力を感じていたからだと思います。毎日走るなんて健康過ぎてかっこ悪いというような・・・。村上春樹の小説なんてダメだ、やっぱり耽美派の谷崎だ、無頼派の太宰だ安吾だなんて文学青年気取りでいたことすらあります。
しかし、不健康を描くために不健康になって、心中したりヒロポン中毒になったりというのは(村上氏はこういう方法を否定していませんが)、今の時代なら単なるワイドショーネタとして炎上して消えてしまいます。やはり不健康なものに真正面から向かって行って、健康な体と精神で表現するという村上氏の方法に賛成です。




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「走ることについて語るときに僕の語ること」の第4章のつづきです。

今回もまた、村上氏の小説を書くという「仕事」と「走ること」についての関係です。
このテーマについては、すでに何度か書きましたが、村上氏が「書く」と「走る」の間にどんな繋がりをみているのか、もう少し見ていきたいと思います。

"長編小説を書くという作業は、根本的には肉体労働であると僕は認識している。文章を書くこと自体はたぶん頭脳労働だ。しかし一冊のまとまった本を書き上げることは、むしろ肉体労働に近い。もちろん本を書くために、何か重いものを持ち上げたり、速く走ったり、高く飛んだりする必要はない"

"机の前に座って、神経をレーザービームのように一点に集中し、無の地平から想像力を立ち上げ、物語を生み出し、正しい言葉をひとつひとつ選び取り、すべての流れをあるべき位置に保ち続ける--そのような作業は、一般的に考えられているよりも遥かに大量のエネルギーを、長期にわたって必要とする。身体の中でダイナミックに展開されているものだ。もちろんものを考えるのは頭(マインド)だ。しかし小説家は「物語」というアウトフィットを身にまとって全身で思考するし、その作業は作家に対して、肉体能力をまんべんなく行使することを--多くの場合酷使することを--求めてくる。"



長編小説を書くことは、肉体労働であり、肉体を「酷使する」とまで言っています。
そういえば、「小説を書く」ほど創造的でなくとも、試験勉強や仕事の資料を作成するときなどは、何時間も机に向かって座ると、身体を動かさなくても疲労が大きくなりますね。そして、そういう生活が何日も続くと、次第に身体に変調をきたし、肩こりや腰痛、体調不良へと進んで行きます・・・

前回の記事(その11:「集中力と持続力は筋肉調教から学べ!」 )では、集中力持続力についての村上氏の考えを紹介しましたが、この2つの精神的な資質と肉体鍛錬にも共通点がありました。



走ることの経験を知的生産に活かす

知的生産においては、肉体はその存在が分かりにくく軽視されがちです。しかし、知的な何かを生み出すには体力が欠かせません。村上氏は、走ることから得た経験を小説を書くことに活かしてきたといいます。


"僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた。自然に、フィジカルに、そして実務的に。どの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけばいいのか?どれくらい外部の風景を意識しなくてはならず、どれくらい内部に深く集中すればいいのか?どれくらい自分の能力を確信し、どれくらい自分を疑えばいいのか?"


「走ること」と「書くこと」が同じように身体的であるとするならば、「走ること」の経験を身体を通じて「書くこと」に応用できる。道路を毎朝走るという肉体の経験が、小説を書くという「肉体労働」にも活かされたということです。

走ることの身体的な経験が知的労働に役立つという考えは、普通あまり馴染みがないものです。
しかし、ある分野で得たひとつの経験は、他の分野にも応用できると私たちは知っています。
 
走るという単純な運動から応用可能な経験を引き出し、それを自分の仕事に応用しながら、作品を生み出していく。これが村上氏がこの本の中で語った小説を書くための方法です。
毎朝のランニングから長距離を走るのに必要な身体と意識のあり方を学び、それを実際に使って小説を生み出してきたというのです。

ランニングは、創作のための基礎体力を作ることに貢献します。しかし、それだけではなくランニングの経験自体が知的作業にも応用可能ということです。

そして、ランニングをこのように語っています。

"同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる十年の方が当然のことながら遥かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それは生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーでもあるのだ。このような意見には多くのランナーが賛同してくれるはずだ。"

いかがでしょうか。



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村上春樹氏の「走ることについて語るときに僕の語ること」の第4章について、再び書いていきます。

今回は、村上氏が語る小説家に必要な3つ資質についてです。

その3つの資質とは、

「才能」、「集中力」、「持続力」

です。

これらは、どんな仕事についてもその分野で一流になるためには必要なものですね。
それぞれについて、村上氏のコメントを見ていきましょう。


才能について

"小説家にとってもっとも重要な資質は、言うまでもなく才能である。文学的才能がまったくなければ、どれだけ熱心に努力しても小説家にはなれないだろう。これは必要な資質というよりはむしろ前提条件だ。燃料がまったくなければどんな自動車も走り出さない"

こればっかりは、自分の力でどうにかなるものではないですね。
ランニングも、仕事も、ただ頑張るだけでは一流にはなれません。自分の適性と自分のやろうとしていることが一致していなければ、その分野で頭角を現すことができないのです。
文化系ランナーである私などは、言うまでもなく、マラソン大会で上位に食い込むことなどは目指していません。


集中力について

"才能の次に、小説家にとって何が重要な資質かと問われれば、迷うことなく集中力をあげる。自分の持っている限られた量の才能を、必要な一点に集約して注ぎ込める能力。これがなければ、大事なことは何も達成できない。そしてこの力を有効に用いれば、才能の不足や偏在をある程度補うことができる。僕は普段、一日に三時間か四時間、朝のうちに集中して仕事をする。ほかには何も考えない。ほかには何も見ない"

何かをするのに、あれもこれもと他の事を考えていては作業が進まないことはご存知の通りです。仕事や勉強をするのに他のことを考えずに集中して行えば効率よく作業をすすめることができます。

マラソンについては、文化系レベルランナーが「集中」することを考えるとしたら、練習やレースで熱心に走るということよりも、他の趣味や楽しみよりもランニングを優先するということになります。
しかし、集中の度合いは村上氏がいうよりも緩くて、ほんのわずかな量の才能を、ある程度注ぎ込むぐらいでしょうか。
具体的には、週末の練習日前日には飲み会に行かなかったり、体重が増えないようにジムに行ったり、食事の量と質を考えたりと、生活がある程度ランニング中心の生活になってきます。集中力というよりはトレードオフですが、ランニング優先の生活をすれば身体が健康になってきますし、レースのタイムも自然と上がってくるようになります。


持続力について

"集中力の次に必要なものは持続力だ。一日に三時間か四時間集中して執筆できたとしても、一週間続けたら疲れ果ててしまいましたというのでは、長い作品は書けない。日々の集中を半年も一年も二年も継続して維持できる力が、小説家には--少なくとも長編小説を書く小説家には--求められる"

そして3つ目は、要するに継続は力なりですね。これもなければ何かを達成することができません。ビジネス書などを読んでいると「成功するために一番大切なことは、成功するまでやりつづけること」という言葉を目にすることがありますが、こういう粘りが仕事やマラソンでは重要です。

ちなみに、放浪の画家山下清は旅に出ると、見知らぬ人に食べ物を恵んでもらっていたそうですが、もらえなかった日は一度もなかったといいます。それは、もらえるまでずっといろんな人に声をかけ続けたから。どこでも生きていけます。スゴイですね。


2つの資質を向上させる


「集中力」と「持続力」は才能とは違い、トレーニングによってその能力を向上させていくことができると村上氏はいいますが、ここが今回の肝になります。


"これは前に書いた筋肉の調教作業に似ている。日々休まずに書き続け、意識を集中して仕事をすることが、自分という人間にとって必要なことなのだという情報を身体システムに継続して送り込み、しっかりと覚えこませるわけだ。そして少しずつその限界値を押し上げていく。気付かれない程度にわずかずつ、その目盛りをこっそりと移動させていく。これは日々ジョギングを続けることによって、筋肉を強化し、ランナーとしての体型を作り上げていくのと同じ種類の作業である。刺激し、持続する。刺激し、持続する。この作業にはもちろん我慢が必要である。しかしそれだけの見返りはある"

マラソンタイムを上げるためにスピード練習をしますが、私はこの時に「筋肉の調教作業」を一番よく実感します。ハーフマラソンのペースよりも少し早いスピードでインターバルトレーニングを行うと初めは2本ぐらいしか続かなかったものが、1週間、2週間と続けて行くうちに身体が慣れ、できる本数が増えます。
ロング走でも、マラソンをはじめたばかりの頃は10km走れませんでしたが、今は50km走ることができます。

限界値を少しずつ上げていくことが、身体的な作業についても、知的な作業についても同様に可能であることを村上氏は説明しています。そして、その作業を通して世界的な小説家になったのですから、説得力があります。

運動が身体を強くし、その過程で精神が鍛えられる。これが、私が今まで漠然と考えていた「身体と精神」の関係でした。しかし、上に引用した村上氏の考えに触れることで、身体(筋肉)の鍛錬と、精神(知的作業の集中力と持続力)の鍛錬を、同じ方法で行うことができることがわかりました。


まとめ

40年以上人生を続けていると、超人的な集中力を持っているひとに出会うことがあります。生まれつきそうなのか、後から獲得したなのかはわかりませんが、私は集中力がなく気が散る方なので、そういう人をうらやましく思っていました。
村上氏は少しずつ訓練を続けていけば、集中力を持続することができる、と語っています。根気よくやれば、40歳を過ぎてもマラソンのタイムが上がっていくように、集中力も持続力も少しずつ上がっていくはず
今後は私も、マラソン練習の筋肉調教の方法を知的作業に活かして、仕事で何らかの成果を挙げてみたい、などと考えています。

走り続けることも、やり方次第でいろんなことの役に立つようです。





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