なぜ走る? 文化系レベルランニング

東京マラソン2010にたまたま当選してしまった「読書が趣味」の文化系人間。 それ以来、50歳を過ぎた今も、なぜか走り続けています。 走ることにどんな意味があるのか? 「からだ」「こころ」「グッズ」「レース」「本」などから、走ることについて考える、ランニングブログです。

カテゴリ: トレーニング

ゼエゼエ走るのって、キツイですよね?

大人になっても走るのが嫌いなひとは、中学・高校時代に部活や体育の授業で散々走らされて、ゼエゼエ言った覚えがある人ではないでしょうか?

しかし、実は私、ゼエゼエ走ることがそんなに嫌いではありません。

これを聞いたら、普通の人は私のことを変人と思うことでしょう。たぶんランナーの人でも、私を変人とみなす人は多いはずです。

昔は私もゼエゼエ走ることは好きではありませんでした。ランニングを始める前までは、とてもそんな風に考えることはできなかったのです。

「ゼエゼエ走る」のは3Kです

簡単にいうと、ゼエゼエと息が上がるまで走ることは、「きつい、苦しい、怖い」の3つのK、つまり3Kがついてきます。まず体が、特に足の筋肉がキツイ。そして、ゼエゼエと呼吸が激しくなって苦しい。さらに、心臓麻痺で死んでしまうのではないかと不安も起こるので怖いのです。

スポーツ以外では異常事態

もし、街中でスーツを着た人が猛ダッシュしていたら、それは緊急事態を予感させます。例えば、時間に遅れそうな人は走るものです。「遅刻しそうなんだなあ」とか、適当に理由を想像して私たちは納得します。

でも、ゼエゼエ息が上がるまで走り続けるスーツのひとは見かけることがほとんどありません。ゼエゼエ走る人はスポーツ以外ではほぼ見かけません。走ってゼエゼエするには500mは必要ではないかと思いますが、その距離をダッシュできるひとはあまりいないですし、それ以上の距離は、自転車・バイク・タクシーなどほかの手段を考えるものでしょう。5分の遅れなら、相手に電話を入れておけば済みそうです。

ランニングをしているのでもないのに、街を歩く服でゼエゼエ走っているひとがいたら、それは異常事態と言えそうです。

走ってもいないのにゼエゼエしたら「息切れ」

ところで、身体を激しく動かしてもいないのにゼエゼエなるのはふつう「息切れ」と呼ばれます。原因は、肥満による心臓への負担、過労やストレスによる脈拍や血圧の乱れ、肺・心臓・脳血管の障害などがあるようです。

肥満や運動不足が原因なら、ジョギングやウォーキングででかなり解決できそうな気がします。マラソンランナーは、日常的に走っているので、少し体を動かす程度で息切れする人は少なさそうです。

多くのランナーは、あまりゼエゼエしてないのではないか?

街でジョギングをしている人たちは、汗はかいていても、ゆっくりで息が上がらない程度に気持ちよく走っているものです。普段よく走る人でも、ゼエゼエと息が上がるほど走る人は少ない気がします。

マラソンランナーでも、私くらいのレベルでは、ゼエゼエ走る人はそんなに頻繁には見かけません。最初からゼエゼエ走っていたら、フルマラソンは到底最後まで持ちません。実際のレースで、スタート直後からゼエゼエ走ってるひとがいますが、大抵は10kmくらいで失速します。つまりオーバーペースです。

マラソンはだいたいゼエゼエ走るものではありません。私がゼエゼエ走るのは、登り坂と、ハーフマラソンの残り2~3kmだけです。何度も記事に書きましたが、これは私にとって、よくあるハーフマラソンの光景です(笑)。

ゼエゼエ走るマラソンランナーとはどんなランナーなのか?

実は、マラソンランナーは、「ゼエゼエ派」と「そうでない派」に分かれます。
ふつうのマラソンランナーがゼエゼエ走らないしたら、だれが走るのかと言えば、それは記録を狙っているランナーか、誰かに勝ちたいランナーです。

ゼエゼエやるランナーは、レースでやります。終盤に自己ベストが見えたりすると、最後はまず間違いなくゼエゼエ走る(笑)。しかし、フルマラソンの場合はゼエゼエ走りたくても足がついてこないので、息が上がらないこともあります。ハーフマラソンでゼエゼエするのは最後の1kmでも余力があってスピードがあがるからです。

さらに、近くを走っているランナーに負けたくない気持ちもゼエゼエ走らせる動機になります。自己ベストは諦めていても、残り1kmでさっきまで横にいたランナーに置いて行かれそうになると、闘志に火がついたりします
闘争本能なのか何なのかわかりませんが、タイムは良くなくても勝つために息が上がるまで走ることもあるのです。

しかし、この闘志も考えもので、自動車運転でも同じ感情が起こりうるので、あまり感心しません。危険なので心の制御ができるようになってから、誰かと勝負をしましょう

マラソンランナーをゼエゼエ走らせるものは何なのでしょうか?
それは「」です。
欲とは本当にすごいものです。小欲知足では、マラソンの記録は生まれないのです。

ゼエゼエ走ることのメリット

上で書いたことは、レース中のことでしたが、マラソンで記録をねらうランナーは練習でもゼエゼエ走ります記録につながるメリットがあるからです。

まず、ゼエゼエ走ることで、心肺能力が鍛えられるからです。心配能力の強化は長距離ランナーにも効果があります。
私もインターバルトレーニングなどのスピード練習を取り入れてから、フルマラソンで3時間半を切れるようになりました。ゼエゼエ走ることで、実際にレースのタイムが上がったのです。ただし、100mや200mのダッシュを繰り返すだけで42km走れるようになるわけではないので、長距離走の練習も必要です。

そうは言っても、やっぱり怖い

ゼエゼエ走ると心肺能力や足腰が鍛えられてタイムが上がります。しかし、ゼエゼエし苦しい呼吸が続くと、やはり身体によくないのではないかと思いますし、心臓麻痺で死ぬのではないかと思います。
特に、始めるまでの時間は不安があります。まずはゆっくり1kmくらい走って体を少し温めて血の巡りをよくしてから取り組むようにしています。

ゼエゼエした後に得られるものもある

そして、これは私だけかもしれませんが、息がゼエゼエしたあとは、とても気持ちいい爽快感があるからある程度続けられるような気がします。この爽快感はいいもので、仕事のストレスなどは吹き飛んでしまうことがあります。

だから、ゼエゼエ走るのが昔ほど苦ではないのです。 今シーズンの私のレースはすべて終わりましたが、まだ時々ゼエゼエする練習をやってます。すでにレースが終わっているので、記録狙いや勝ちたい目的ではありません。爽快感もありますが、レースのための欲がないと、3kを乗り超えてゼエゼエ走るまで気持ちを高めることはできません。
実は、レースなしでゼエゼエ走ることができるのは、他の理由があります。それについては、また近いうちに書こうかと思っています。


前回のつづきです。

天才の言葉は普通のひとにわかるのか?

ここからが問題になります。

「末端と末端がつながる」感覚は、彼のような天才アスリートにしかわからないことなのかどうか、ということです。

アスリートとはいえ同じ人間です。
たとえ凡人でも、天才の感覚を、ほんのわずかでも感じることができるかもしれません

私の場合は、つま先と指先に力をいれて走ってみても効果はありませんでした。
しかし、この「末端と末端がつながっていれば故障はしない」という言葉は私の記憶の隅に残りつづけました。


マラソンではなくヨガのレッスンで

私はヨガのレッスンを受けています。もう3年ぐらいやっていますが、今でもできないポーズがあります。それはランジの姿勢で身体をひねるポーズです。

今年の夏にヨガのレッスンに出ているときのことでした。このランジのボーズをとっているときに急に思いつきました。「足の指に力をいれてみよう」と。

この時は溝口選手の「末端と末端」については忘れていましたが、ふと思いついたのです。
前後に開いた足の指すべてに「グッ」と力を入れる。

すると、どういうわけか両脚の太ももにもうまく力が入り、腰から下が安定したのです。

帰宅途中、溝口選手の言葉を思い出し、考えました。
もしかすると、これが神経回路がつながるということ??

末端と末端ではありませんでしたが、足先と太もも内側がつながったのかもしれません。
嬉しくなり帰宅後、ひとりでもう一度ランジの姿勢で足の指に力を入れてみると、確かに下半身が安定しました。

新感覚はランニングにも応用できるのか?

足先と太もも内側がつながったような感覚。
これが本当に神経回路がつながったのかどうかはわかりません。
しかし、ヨガを3年やってきて一度も感じたことがなかった感覚です。

手足の指に力を込める。走ってみた時には、まったく効果がありませんでしたが、ヨガで太ももと何かがつながったような感じがしました。

そして、先日、もう一度も手足の指に力を込めて走ってみました。
相変わらず末端と末端がつながったかどうかはわかりませんでしたが、違った感覚がありました。

足先と太ももの内側がつながっている感覚があったのです。

足先の母指球辺りから太ももの内転筋くらいまでがつながって、連動している感じがするのです。それまで走っていてなかった感覚でした。


天才をわずかでも感じられたということで納得

溝口選手は、「末端と末端」つまり手先と足先のつながりについて話していました。私の場合は、つながったのは足先と太もも。
「末端と末端」ではなく「末端と中間」ということで、中途半端な感じです。でも、私の中では天才アスリートの言葉が身近に感じられて、少しだけ誇らしい気持ちになりました。

本を読むと、知識が増えますが本で得た知識を実生活で生かすことは難しいものです
しかし、今回は溝口選手の言葉に惹かれて、その意味を考えることで、自分の走りにわずかでも変化をもたらすことができました。

他の競技の一流選手の言葉もマラソンに生きることがある。
自分はそんな体験できたことが嬉しい文化系の人間なのだ、と改めて自覚したのでした。



●『一投に賭ける  溝口和洋、最後の無頼派アスリート』  上原善広著
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先日『一投に賭ける』という本を紹介しました。
<全力でオススメする一冊>スーパーアスリートを感じよう ~ 『一投に賭ける』上原善広著

この本では、溝口和洋という規格外のやり投げ選手の世界を描いていますが、トレーニングや技術、身体についての考えには、常人には理解できないことがたくさんあります。

唯一無二の才能をもったスーパーアスリートの考えることが、「普通のひと」にわからないのは当たり前。彼の言葉のすべてを理解する必要はありません。

しかし、私はこの本の中に、記憶に残り忘れられない言葉があり、ときどき思い出してはその意味を考えます。今回は、その記憶に残る言葉について書いてみたいと思います。


「末端と末端がつながっていないから故障する」

それは溝口選手が選手の故障について語る「末端と末端がつながっていないから故障する」という言葉です。

もう少し詳しく見てみます。

この言葉は「デッドリフト」というウエイトトレーニングについての説明の中の一節で、次のようにつづきます。

手先とつま先がつながっていれば、腰は痛めない。一般的なフォームでも、痛めるときは大抵、この末端と末端がつながっていないときだ。

では、末端と末端つながるとはどういう意味かというと、

手首もグッと曲げて握る。デッドリフトは手首のトレーニングにもなる。さらに足の指はギュッと噛む感じでしめる。これで末端と末端つながる
簡単に言うと、耳や大胸筋を動かせる人がいるが、それは耳や大胸筋に神経回路ができているから可能なのだ。早い話がこれを全身の隅々にまで行きわたらせ、やり投げに応用していけば良い。

手先とつま先には常に力をいれて末端と末端の神経回路をつなげておく、そうすればケガをしないと溝口選手は言っているのです。


溝口選手の言葉が記憶に残った理由

 私はマラソンを始めてからというもの、膝や足首のケガ、腰痛などさまざまなスポーツ障害に悩まされてきました。 マラソンで自己ベストを出そうと一生懸命に練習しても、ケガをして1ヵ月を棒にふり、練習の成果は帳消しになってしまうことも。

ケガや病気で何度も練習を無駄にしたことがある私は、ケガについては人より敏感なのかもしれません。

また、私は本やネットで身体について研究することが好きで、「故障しないための工夫」に興味がありました。
つまり、この言葉から、身体のしくみについての何らかのヒントを得たかったのです。

たとえば、「末端と末端がつながる」ということは、その間にある身体パーツにも影響がありそうです。

もし手先と足先の神経がつながるのなら、その間にある体幹と手足の連動もスムーズになるかもしれません。手足の先に力を込めるだけで身体が連動するなら素晴らしいことです。


言葉どおりにをそのまま試してみると・・・

私は実際、この言葉を応用して手先と足先の神経回路をつなげるべく、手を強く握り、足の指に力を込めて走ってみました。
素直にこの言葉どおりにやってみました。

しかし、とくに変わった効果はありませんでした・・・

手先と足先に力が入っているという感覚はありますが、末端と末端がつながる感覚はなかったのです。走りについての影響は、特に見られません。手を強く握り、足の指に力を込めているだけ・・・

むしろ走りには逆効果
で、末端への意識が強くなりすぎて集中力が続かず疲れてしまうのでした。

その後も何度か試してみましたが、何かを身につけることはできませんでした。
私は文化系人間で、本来は運動神経がよい方ではありませんので、トップアスリートの感覚を体感することは難しいのかもしれません。


意味がわかっても理解できない言葉

このように、世の中には、言葉の意味はわかっても根本的に理解するのが難しいことがよくあります。
この言葉は私にとって「意味がわかっても理解できない言葉」だったのです。

この言葉は、意味が通じても中身がないものなのでしょうか?
溝口選手は日本人でありながら、欧米の巨漢の選手と互角に戦い、自分流で研究しながら持ち前の探求心と根性でハードトレーニングを続けて成果を挙げたひとです。

実際には何かあるのに、平凡な人間にはわからないというだけ
のことではないのか?

もしあまりにうさん臭かったら、心には残らないはずです。
この本を読んでから1年は過ぎていますが、まだひっかかっているということは、この言葉に何らかの真実がかくれていると思っています。

少なくとも溝口選手が何かを誤解して、このような言葉を残したとは思えません。おそらく、究極の身体に備わった感覚が、その真実をつかんだのでしょう。


つづく


●『一投に賭ける  溝口和洋、最後の無頼派アスリート』  上原善広著
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一投に賭ける


かなり影響されました


皆さんはブルース・リーをご存じでしょうか?
そう、あのカンフー映画の世界的スターのことです。
私が小・中学生の頃は、テレビでよく彼の映画を見たもので、見た後はブルース・リーが必ず私に乗り移ります。
「アチャ、アチャー、アチャーーー」(そして眉間にしわを寄せる)

ジャッキー・チェンの映画も同様で気合が入ります。その後一週間ぐらいは修行モードが続き、腕立て伏せ、腹筋運動、パンチ、キックなどの練習を適当にやり、棒っ切れでヌンチャクもつくって頭に「たんこぶ」という名誉の傷もおいました。

こんな風に腕っぷしの強いヒーローを見て修行してしまうことを、私は勝手に「ブルース・リー効果」と呼んでいます。(学問的には正式な名称があるかもしれませんが、その点は深堀りしません)

ところで、溝口和洋というやり投げ選手をご存じでしょうか?
この本を読むまで私は知りませんでしたが、1980~90年代に活躍しオリンピックにも出場した選手です。この本のおかげで私は一気に彼のファンになりました。そして、無性に体を鍛えたくなりました。そうです。私の身に30年ぶりにブルース・リー効果が起きたのです!

私は40代後半ですので、影響されてやり投げをしたわけではありません。しかし、ブルース・リー効果で、夏の間練習をさぼり、"なげやり"だった私を、肉体の限界まで走り続けたいような気持にさせたくれたのです。


この本について


この本は「『本の雑誌』2016年度ノンフィクションベスト10」の第一位にも選ばれ、読みごたえ十分です。
著者の上原善広氏は、溝口選手に18年にもおよぶ取材を積み重ね、その文章の奥行きが溝口和洋という人物を浮かびあがらせます。
文体は、溝口選手が自分で自分のことを語る一人称スタイルで、まるで本当に本人が喋っているかのようなリアルさ。
読んでいると一匹オオカミの溝口選手の男臭さが伝わってきます。

著者の上原氏はこう語ります。
もともとは、彼のトレーニングと投擲技術の話だけで一冊の本にするつもりだった。「全身やり投げ」だった選手だからこそ、彼のトレーニングと技術論だけで、実験的なルポルタージュが書けると構想していたからだ。
その後、さらに試行錯誤をへて、私は彼を一人称というスタイルで書くことにした。これが溝口を余すことなく描き出す方法だと思ったのである。

溝口選手の個性と存在感は突出しています。
上原氏の文章力が、その個性を「余すことなく描き出す」ことに成功していて、ページをめくるごとに溝口選手の世界にグイグイと引き込まれます
その結果、私のような40代後半の男にブルース・リー効果が現れたのです。


溝口和洋選手について


溝口氏はやり投げの選手として80年代に国際舞台で活躍。体の小さい日本人(と言っても、溝口氏は180cmある)は力を使う投てき種目では不利と言われていましたが、溝口氏は外国人に勝つために独自の研究を積み重ねます。
そして、猛練習を続けることで体の大きな外国人たちと互角以上の戦いをし、1989年のワールドグランプリシリーズで世界総合2位に輝きます。

ランニングとやり投げは全然違います。持久力と瞬発力の違いです。それでも、この本を紹介したいのは、この本から得られるブルース・リー効果を、ぜひ味わってほしいからです。

溝口氏は練習に関してとにかくストイック。私などはマラソンの練習については、少しでも楽に練習して自己ベストを更新したいと考えています。練習も嫌いではないけど、正直なところ時どききつい(笑)。

トレーニング内容や競技に賭ける意気込みは完全に超人です。この本を読むランナーやそれ以外のひとに、この超人の個性から少しでも刺激を受けて、今後の練習や人生に役立ててほしいと思っています。


印象的だった3つのこと


とにもかくにも、まずこの本を読んで、溝口和洋というひとの独特な雰囲気を味わってほしい。
そんな本ですが、内容についても少し触れてみます。

溝口選手の競技への向き合い方から学んだことが多くありますが、ポイントを3つに絞ると以下のようになります。

1. ハードトレーニング
2. 精神力の強さ
3. 物事を深く考え突き詰める

ひとつずつ見ていきます。

1. ハードトレーニング

おそらく溝口選手のトレーニング内容のすさまじさを心に刻まれることになるでしょう。人間の限界を超えている、というか、もはや神の域です。

トレーニングは常にMAX、つまり限界になるまでやらなければ意味がない

限界とは何か?

この100%とは、全日本レベルの選手の三倍以上の質と量がある。例えば12時間ぶっとおしでトレーニングした後、2、3時間休んでさらに12時間練習することもあった。これだけやってようやく人間は、初めて限界に達する。

「12時間ぶっとおし」というのはもはや想像がつかない世界です。しかも、少し休んで再開するというほぼ24時間のトレーニング・・・

溝口選手のトレーニングはウェイトがメインですが、オフシーズンに母校の学生とともにベンチのみの練習をした時には、ほとんどの学生が倒れたというエピソードもあるほどです。この時に学生たちは何を思ったでしょうか?ぶっ倒れたのは気の毒ですが、超人と一緒に練習できたことは羨ましいです。

2. 精神力の強さ

では、超ハードトーニングをどのように続けたのか?
根性でカバーする」そうです。実は私はあまり根性論がすきではありません。しかし、次の文を読むとさすがに感心してしまいます。
人間というのは、肉体の限界を超えたところに、本当の限界がある。いわゆる「火事場の馬鹿力」というやつで、毎日、その「火事場の馬鹿力」を無理やり出せば良いだけのことだ。「火事場で焼け死ぬ」と思ってやれば、できないことはない。死ぬ気でやれば人間というのは大体何でもやれるものだ。
「火事場の馬鹿力」というのは、火事のときには凡人も人並以上の力を発揮するという意味ですが、毎日が火事のような生活。恐ろしい精神力です。

本人は自分を「執念深い」といいます。勝利に対する貪欲さが彼の精神の一部を形づくり、ハードトレーニングを支えます。その精神と肉体をもって初めて、体のでかい外国人選手と互角以上にわたりあえたのです。
体力がない日本人でも並外れた精神力で取り組めば、奇跡をおこせるということですね。
でも、溝口選手だからできたのだろうと思わずにはいられない。私もまだまだ修行が足りません。

ところで、自分に甘い私は、ひとりでマラソン練習するとサボりがちになります。なので、仲間たちとときどき一緒に走ることで、モチベーションを維持したりしています。
溝口選手の練習は基本的には一人で行い、コーチをつけていません。それでも超ハードトーニングを続けられる。ここに彼の精神の強さがうかがえます。

3. 物事を深く考え突き詰める

スポーツでは、強い精神があれば、どんなひとでもそこそこの成長と記録の向上を期待できます。しかし、優秀な才能がぶつかり合うトップレベルの戦いとなると、恵まれた身体と強い精神だけでは足りないもののようです。

溝口氏はワールドグランプリシリーズで年間総合2位に輝くことができました。身体の小さな日本人としては異例のことです。この偉業を達成するには精神力の強さとハードトーニングはもちろんですが、その他にもうひとつの才能が必要でした。それは、自分で問題点を見つけ合理的に改善していく能力です。

技術面の新発見に、コツというものがあるとしたら、これまでの常識をすべて疑い、一からヒトの動作を考えることだ。

たとえば、「後ろ向きで走ると遅い」ことは常識ですが、溝口選手は実際に後ろ向きに走ってみて遅いことを確かめました。それほどまでに合理的なのです。

ビジネスの世界でも同じだと思いますが、ただ言われたことをするだけでは一流にはなれません。もっと深く考え、進むべき方向を自ら選択し判断していかなければならないのです。
やるべきことと、やるべきではないことを自分で考えて決め、それを自分の意志で実行していく。進む方向が間違っていたなすぐに軌道修正する。そんな孤独な作業をひとりで続けて結果を残したひとりのアスリートの姿には、大いに学ぶことがありました。

まとめ

ランナーでもアスリートでも、そうでなくてもどんなひとにも読んでもらいたい本です。ぜひお読みください!

●『一投に賭ける  溝口和洋、最後の無頼派アスリート』  上原善広著
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 楽天

この前、足底腱膜炎についてご報告しましたが、1週間ほど様子見して無理しないように気をつけました。夜のランニングはキロ6分程度に抑えつつ、終わった後には脚全体のストレッチとゴルフボールを使った足裏マッサージを入念に行いました。
そして、先週末再び外を20kmほど走ったところ、足裏の痛みは消えていました。


気持ちいい走りができた

もう少し詳しく書いてみます。
故障明けで恐る恐る走る経験は、ランニングを2年も続けていれば、誰にもあることでしょう。
今回もそんな感じで走り始めました。
ちなみにシューズはライトレーサーRS5(ノーマル版)。軽くてクッション性はあるものの、サイドの補強がないため横にぐらつきやすいのが特徴です。

朝6時半スタート。外は秋の気配。
まだ日は低く少し薄暗く、上着を脱ぐと肌寒い。川の堤防には、散歩やランニングをする人たちがすでにたくさんいました。朝の運動は気持ちいいですよね。


呼吸と左の内転筋に集中

スタートは本当に恐る恐る。右脚にも左脚にも負担がかからないように、気をつけて走り出しました。
7kmほど走ると、スタート時に少し重いと感じていた身体がほぐれて、軽くなってきました。足裏の痛みもない。
呼吸を一定にして、意識を自分の息に集中
さらに意識を左脚の内転筋に持っていきます。
なぜこの左脚の内転筋かというと、私の場合ここに体重が乗るような意識で走ると身体のブレがなくなって弱い右脚に負担がかかりにくいことを最近発見したからです。
この左の内転筋は私には扱いが難しく、意識していないとすぐに力が抜けて膝が開いてきてしまいます。

ペースはキロ5分半ほど。自分の呼吸と左内転筋への意識の集中を交互にくり返す。これをひたすら続ける。もちろん、途中で集中力が途切れて、ぼーっと「昼ご飯何食べようかな」などと考えたりもしました。修行が足りません(笑)


悟りはないが修行的ランニング

こんな具合で、この日は文字通り「修行」のようなランニングでした。
自分の身体に集中していると、地面から伝わる衝撃がうまく両足の太もも辺りに伝わる感覚が心地よくなります。
「うまく走れている」という感覚
今まで走っていた時よりも身体が楽というか、脚の力がうまく地面に伝わっている感じです。

ペースはキロ5分半ですので身体には苦しさはありません。ゆっくり過ぎず、前に進んでいる意識もあり、テンポがちょうどいい感じ。
自分の呼吸と左内転筋に意識を向けることによって、心地よさが続くようです

秋の朝の空気、目に見える川の水面や木々と草花。走ることで自分の身体感覚が研ぎ澄まされるようです。
とはいえ、集中力がすぐに切れ、この感覚は長続きしません。
「修行が足りん!!」
ランニングで悟りを開く日はしばらくかこないでしょう。


走ることの楽しさと気持ちよさ

この研ぎすまされた感覚は、一種のランナーズハイではないかと思います。実際はどうかわかりませんが、久しぶりに走ることが本当に気持ちいいと感じたことは確かです。

長年走っているといろいろなことがありますが、マラソンのレースに出てて自己ベストを狙うことばかりを考えていると、走った距離やスピードなど「数字」ばかりに気を取られてしまいます

しかし、走ることはそれ自体で楽しく気持ちいい、そんな側面があることを、この日の朝、思い出すことができました。故障して恐ごわ走るのもそれなりに意味があるものです(※悟りを開いたわけではもちろんありませんw)。

レースがないとモチベーションの面からランニングが続けにくいのは事実ですし、自分にとって自己ベストを更新することは新しい自分に出会うことでもあります。しかし、それだけではなく、時々走ることの楽しさと気持ちよさについても思い出して、数字では測れない部分も大切にして走ってみようかなあという気分になった次第であります。

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