ようやく軽く走れるくらいまで、体が復調してきました。
振り返ってみると、走ることはおろか、満足に動けない状態がありました。
そんなとき、自分の身体について知らなかったことに気づき、それまで走れていたことの意味についても考えさせられました。


「走る時間」が「読む時間」に変わる

病院のベッドで動けないときにしていたことといえば読書でした。
病室に持ち込んだ数冊の本に一日の時間の多くを費やしました。
動けない生活が数日続くと、走ることに対する関心が薄くなります。自己ベスト更新を目標に頑張っていたころは、本やネットから「走ること」についての情報をたくさん取り込んでいましたが、ベッドで寝てばかりの生活では、走りの情報にも興味がなくなっていました。

ここで気づいたのは、身体が動かなくなるだけで、時間の使い方がかなり変わってしまうということでした。特に、スポーツが習慣になっている人は動けなくなれば、それまで身体の運動に費していた時間が、身体以外の活動の時間へと置き換わることになります。


「走る」と「読む」に必要なもの

走ることと読むことには、必要とするものに違いがあります。

当たり前のことですが、「走るとき」は身体活動がメインとなります。一方の「読むとき」は、その時間のほとんどが知的活動に費やされます。
走るときに身体を動かすことを止めれば、走ることができません。読書のときに、知性が働かなければ、単なる音読の発声練習と変わりません。
走るときは身体の動きが必須で、読むときは知性が必要となります。

また、走るときには、転倒の危険があるため、周りの状況に意識を向けます。逆に読書では、周りの状況に気をとられれば本の内容が理解できないので、本のページに意識を集中します。


「走る」と「読む」の共通点

人間の活動として、かなり違っている「走る」と「読む」という行為ですが、共通点もあります。

走るときは、脚の動きによって空間を進みます。外を走れば、「自宅から公園まで」というような移動が必ずつきまといます。これに対して、読むときは、視線が文字を追うにつれて必ずページが進むことになります。
走ると読むの共通点は「進むこと」です。(走る時は空間(移動距離)、読むときはページが進みます)。

「進むこと」にはスピードの速い・遅いが関わることがあります
。そして、「走ること」も「読むこと」のどちら場合も、スピードが速いと、世間で良い評価を受けるようです。脚が速いと賞賛されます(世界一足が速ければスーパースターです)。読むのが速いと、いろんな知識が増えますから社会的に成功しやすい。

しかし、読むという行為には「理解」が伴わなければなれません


「読む」という行為の意味

スピードという視点からみると、読書については速読というものが思い浮かびます。速読の達人ともなると、300ページもあるような本を10分くらいで読み終えてしまうようです。しかし、読書には「内容の理解」が求められます。どんなにたくさんの文字を目で追っても、その言葉の意味を正しく理解できないのならその読書にはほとんど価値がありません。読むという行為には「深さ」も求められるのです。
 走ることについてはどうでしょう?走る速さのほかに、フォームの美しさなどが語られたりしますが、読書にあるような理解の深さが価値の対象になることはありません。「あのひとの走りは深い」というようなコメントは聞いたことがないです。


「深い走り」を目指したい

こうして「読むこと」と「走ること」を比べてみると、今世界中で行われている走るという行為には深さが欠けているということがわかります。
しかし、走ることの深さとは...一体何のことなんでしょうか?(笑)

読書の深さが、本の内容の理解の深さであるとするなら、走ることの深さはランニングとその身体についての深さのような気がします。
走るという行為の意味が、人々にもっと理解される時に、「深い走り」というものが生まれるのでしょう(それがどういうものか想像がつきませんが...)。

私の走るスピードはそれほど速くありません。なので、私は死ぬまでに「あの人の走りは深いなあ」と感心されるような深いランナーになることを願っています。