今年は桜の開花が遅かったものの、最近暖かくなってきたためか、それとも記録狙いのレースがなくなったせいか、私も心に油断があったようで、風邪を引いてしまいました。
昨日は、掛川新茶マラソンの応援を予定していましたが、少し熱があったためキャンセルし、家で寝て過ごすこととなりました。


寝ていて思う走ること

こんな風に週末を過ごすのは何か月ぶりなのか思い出せません。土日のどちらかはだいたい走っているのでも寝て過ごす週末が少し新鮮。最近は身体を鍛えてばかりで疲労がたまっていたので気分転換にもなりました。
とはいえ、昨日は、フルマラソンを走っているひとがいるのに、こちらは身体がだるくてダウンという状況。頭痛がひどく、その苦しみが早く消え去ることを祈るばかりでした。やっぱり健康が一番大事だなあ、と基本中の基本について再認識させられることとなりました。


走っていて苦しい人、苦しくて寝てる人

頭痛と微熱は幸いにも収まったところで、今日は、改めて身体の「苦しさ」というものについて考えてみることにしました。
昨日は横になって病人として過ごしましたが、身体の苦しさは病人とマラソンランナーで違います。病人は病気の症状により苦しい。これに対して、レース中のランナーは一生懸命走っているから苦しい(のんびり会話しながら走っていたら苦しくないです)。同じ「苦しい」でも病人とランナーでは意味合いが違います。

受動的か能動的か

病気やケガの苦しさからは、治らなければ解放されません。治るかどうかは自分の意志で自由に決められず、意志が通用するのは治そうという気持ちの部分だけです。
一方、必死で走るランナーの苦しみは、身体の疲労がおもな原因で(重度の脱水症や捻挫などの病気やケガとは別の話です)、走ることを止めれば終わるものです。

病気やケガは受動的で、自分の意志で苦しみから逃れることは難しく、一生懸命走ることは能動的で、自分の意志で体力限界の走りを止めさえすれば苦しみは終わります。


ランナーが自ら苦しんで得るもの

マラソンランナーの苦しみは、病気と違っていつでも終わらせることができる。まずこの自由さが、苦しさを軽くします。
苦しくなったら歩いてしまえばいいですし、歩いても苦しければリタイアして収容バスに乗ってしまえばそこで完全に身体的な苦しさからは開放されます(もちろん心理的な苦しさが生まれるリスクもありますが・・・)。
マラソンの苦しさは、病気と比べれば仮の苦しさです。もし、走るときの苦しさがまったく制御不能だとしたら、マラソンをする人はいないでしょう。

しかし、それ以上に大切なことは、どんなに苦しくてもその苦しさが必ず終わることを知っている点です。病気が不安なのは、苦しさがいつまで続くのかわからないことです。

そして、マラソンランナーが苦しみから解放される一番の解決策は、ゴールすることです。
いつでも苦しみから解放される権利を持っていながらそれを行使せず、フルマラソンなら42.195kmを走り切る。ここにマラソンにおける苦しみの意味があります。

では、なぜマラソンランナーが好んで苦しむかと言えば、自分にとってのベストの形でゴールしたいからです(ベストの走りでなければ苦しくありません。たぶん)。

マラソンランナーが得るものは、完走や自己ベスト更新などの達成感や自己満足などいろいろとあると思いますが、そんなことより実は苦しんでゴールするのが単純に楽しいからマラソンに出るのではないか?
そういう何の役に立つのかわからないことが楽しいのが、スポーツであり、ゲームであり、遊びというものの本質なのだ、と結論づけた病み上がりの私でした。