前回記事で「ゼエゼエ走ること」について書きました。
それで、ふと考えました。ゼエゼエ走る文学はあるのか?
これまでにこのブログでは村上春樹氏のエッセーを紹介したことがありますが(カテゴリー「村上春樹氏に「走ること」を学ぶ」参照)、小説ではありませんでした。「ゼエゼエ走ること」は物語としてはなかなか成り立ちにくい。
でも、走る文学の名作はあります。そう、走るといえば、日本人ならみんなが知ってる太宰治の『走れメロス』。
なぜこの物語が有名かというと、教科書によく載っているからだそうです。私はこの作品読んだような気がしますが、はるかな昔のことで、ほとんど覚えていません・・・
内容について知っているのは、「友人を救うためにメロスは走った」くらいの記憶だけ。
つまり、私はこの国民的名作をよく知らないのです。これはいけないと、この機会に、まず『走れメロス』を読んでみることにしました。
この話、メロスがピンチの友を救うために走った話と思っていましたが、そうではないのです。
救うのですから、友が何らかのヘマ(借金や犯罪)をして、捕らわれの身になってしまい、その友人を救うのに走ったのだと勝手に思っていました。
違いました。とんでもない誤解です。
死罪を言い渡されたメロスは、自分が必ず戻ることを信用してもらうために、一番大切な親友を人質に差し出したのです。期限までに戻らなければ、友は死刑。戻ったら自分が死刑。そんな絶望的状況です。この作品は「親友を救う話」では、まったくないのです。しかも親友を人質に差し出す時点で、もはや「親友」かどうかも疑わしいです。が、まあ、それは置いておきます。
ところで、私はこの作品の登場人物たちの人間関係やその心理の分析をしたいわけではありません。
知りたいのは、メロスの走りです。昨者とっては「走ること」よりも他のことが大事かもしれません。しかし、私は「ランナーとしてのメロス」にしか興味がありません。必死で走るときの人の有りようを知りたいのです。なので今回は、ランナーとしてのメロスにとって重要だったことだけを見ていこうと思います。
10里はだいたい40km。フルマラソンの距離くらい。
帰りも40kmで計80km。この往復80kmを3日間で行えばいい。距離だけなら大して難しくありません。フルマラソン完走したことがあるランナーならそれほどではないです。
しかし、この40kmの道のり、どうやらフラットではありません。「ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり」とあります。
「峠」があるのです。
メロスはトレランをしていたのです。
トレランの40kmは、フラットなマラソンに比べて体力的にかなり厳しくなります。時間も倍増する可能性もあります。山の標高や高低差、道の険しさについては書かれていないので、どうなのかわかりませんが、普通のマラソンコースよりはずっと難しいはず。
故郷に向かう「往路」は、深夜にシラクスの町を出て一睡もせず翌日の午前に故郷に到着。徹夜でランニングはなかなかハードですね。
故郷からの帰り「復路」は、二日後(3日目)の早朝に出て陽が沈むまでに戻らなければなりません。しかし、うっかり者のメロスは妹の結婚の祝宴に参加して寝坊までする始末。とはいえ、休養は十分とれたでしょうし、早朝だったのでまだ時間に余裕がありました。途中、間に合うことが確実になると、なんとウォーキングに切り替えるのん気さです。親友への想いを疑りたくなりますが、これも重要ではありません。
ところが、やはり物語です。豪雨で橋が落ちた川の濁流を渡ることになったり、山賊に命を狙われたりと、走り以上に道中の出来事が困難。しかし、私が知りたいのは、こういった偶発的な事件の顛末ではありません。あくまで、マラソン文学としての『走れメロス』。ランナーのメロスなのです。
そもそも練習もなくいきなり40kmを走るというのはふつうの人には無理があります。マラソンランナーなら、練習もなく40km走ることがいかに困難なのか知っています。しかも山越えのトレラン。途中歩いたとはいえ、40kmを自分の足で移動するのは途方もない脚力持ち主に見えます。
メロスはその困難をやすやすとやってのけます。けっこうな体力自慢の韋駄天というところでしょう。この走りに加えて、濁流を泳ぎ切り、山賊をやっつけます。トライアスロンに近いかもしれませんが、そんなものではありません。どちらも命がけですから、ストレスも大きい。心身ともにツライでしょう。
しかし、そんなスーパーマンのメロスでも、さすがに、トレラン、洪水、山賊退治で疲れ果ててしまいます。そして、ついには血まで吐いてしまいます。
吐血の原因は何なのかはわかりません。が、もし現代のマラソンやトレランのレースだったら、即中止ですね・・・
物語ですから、もちろん血を吐くのもなんでもありですが、走りすぎて血を吐くというのは、もともとどこか悪かったような気がします。脱水や熱中症で気を失ってしまうというのは現代のマラソンでもあると思いますが血を吐くのはひどい。よほどの重症です。
それでも走ったメロスは、牧人(羊飼い?)なので足が強かったのでしょう。体力はとにかくある。根性もあります。
峠を登り切って、ゼエゼエ呼吸をしてしまうメロス。全文を通して「荒い呼吸」の描写はここだけですが、山をのぼり切り息が上がるこの部分はリアリティを感じさせます。ランナー目線では、血を吐くのはリアルに感じませんが、息が上がるのはリアルっぽい。
ところで、なぜメロスはこんなにゼエゼエ走るのでしょうか?それは親友を裏切らないという信念があるから。
この信念こそが、メロスの走りの原動力です。箱根駅伝でタスキをつなぐ選手の責任感にも似ています。この作品が教科書に載るのは、この辺りを学んで欲しいからでしょうか?
この物語にリアリティを与えるものがもう一つあります。それは、メロスの心に生まれる「葛藤」です。
濁流の川を渡り、山をのぼり、山賊と戦うと、さすがのメロスも疲れます。ここに午後の暑い陽ざしが メロスにふりそそぎ、意識をもうろうとさせます。
この肉体的な疲労の極限で、勇者メロスが悪い気を起こしかけます。
濁流と山賊を全力で切り抜けた自分を、よくやったと言い、自分を誉めます。
ほかの人間ならできないようなことを自分はやった。だから、たとえ完走できなくてもよいだろう、と考えます。全力は尽くしたという言い訳。人間的、あまりに人間的。
この人間的な葛藤が私にはよくわかります!わかりすぎるほどわかるのがツライ(笑)
私はフルマラソンに参加すると途中でこういう葛藤によく出会うのです。「練習は限られた時間の中で精一杯やった。普通のサラリーマンは、マラソンなんかやらない。フルマラソンに参加しているだけでもすごいことだ」こんな言い訳が浮かんでは消え、レース途中で歩くことや棄権することを考えるのです。
もっとも、私はマラソン大会はよほどのことがない限り完走はします。しかし、途中で苦しくなったり足が痛くなったりすると、続けるか、棄権するかで心に葛藤が生じるのです。これもリアルです。マラソンレースの心理のリアル。
また、前回書きましたが、「自己ベストを出したいという欲」と、「ライバルに勝ちたいという欲」。この2つの欲によって、ふつうのランナーが、マラソン大会でゼエゼエ走ってしまうのです。そして、私もまた、欲をベースにしてマラソンのゴールを目指すのです。
一方、メロスは親友を人質に差し出す「ろくでなし」ですが、すでに書いたとおり、血を吐くまで走って親友との約束を守りました。メロスが葛藤を乗り越えて、予定時刻に間に合ったのは、自分を信じて待つ親友を裏切らないためです。
普通の市民ランナーは欲を力に走るので、意外と簡単に自分の目標となる自己ベスト更新を諦めてしまいがちです。
レースで自己ベストを出したい気持ち。その先には何があるのでしょうか?
自己ベストを出せばマラソン仲間に自慢できます。しかし、その程度の欲だから、血を吐くまで走ろうとは思えません。自己ベストを諦めて簡単に歩いてしまうでしょう。
それとも、自分に勝つことでしょうか?自分に勝つことを自分に約束しても、たいていの人は負けてしまうのではないでしょうか?ダイエット情報の氾濫をみれば、自分自身への約束が当てにならないことはよくわかります。
自己ベスト更新をより確実なものとするためには、メロスの信念のようなもっと大きな目的が必要かもしれないのです。
大切なひとからの信頼を裏切らないように走る。ふつうの市民ランナーがマラソン大会にこんな気持ちで参加することはほとんどないでしょう。とはいえ、大切な人との信頼や約束にこたえようという気持ちは、人生の大舞台で成功するための動機としてはとても強いものになりますし、苦難を乗り越えるためのエネルギーにもなるはずです。
『走れメロス』は物語です。メロスの走りは、超人的で、やや現実離れしています。しかし、メロスを完走へと導いたものは、その体力ではなく、大切な人への思いと相手からの信頼なのです。
ランニングは体力だけでなくメンタルも大切です。信念があれば、苦しさと葛藤を乗り超えて自分の力以上の力を発揮し、自分のマラソンを走りぬくことができる。こんなテーマを、マラソン文学としての『走れメロス』から今回私は読み取りました。
自己ベストの向こう側を目指して走る。ここにこそが、走り続けることの新しい可能性があるような予感がしています。
以上、40代後半ランナーの読書感想文でした。
それで、ふと考えました。ゼエゼエ走る文学はあるのか?
これまでにこのブログでは村上春樹氏のエッセーを紹介したことがありますが(カテゴリー「村上春樹氏に「走ること」を学ぶ」参照)、小説ではありませんでした。「ゼエゼエ走ること」は物語としてはなかなか成り立ちにくい。
でも、走る文学の名作はあります。そう、走るといえば、日本人ならみんなが知ってる太宰治の『走れメロス』。
なぜこの物語が有名かというと、教科書によく載っているからだそうです。私はこの作品読んだような気がしますが、はるかな昔のことで、ほとんど覚えていません・・・
内容について知っているのは、「友人を救うためにメロスは走った」くらいの記憶だけ。
つまり、私はこの国民的名作をよく知らないのです。これはいけないと、この機会に、まず『走れメロス』を読んでみることにしました。
『走れメロス』を読んでみた40代後半ランナー
読んでみた結果は、意外でした。この話、メロスがピンチの友を救うために走った話と思っていましたが、そうではないのです。
救うのですから、友が何らかのヘマ(借金や犯罪)をして、捕らわれの身になってしまい、その友人を救うのに走ったのだと勝手に思っていました。
違いました。とんでもない誤解です。
死罪を言い渡されたメロスは、自分が必ず戻ることを信用してもらうために、一番大切な親友を人質に差し出したのです。期限までに戻らなければ、友は死刑。戻ったら自分が死刑。そんな絶望的状況です。この作品は「親友を救う話」では、まったくないのです。しかも親友を人質に差し出す時点で、もはや「親友」かどうかも疑わしいです。が、まあ、それは置いておきます。
ところで、私はこの作品の登場人物たちの人間関係やその心理の分析をしたいわけではありません。
知りたいのは、メロスの走りです。昨者とっては「走ること」よりも他のことが大事かもしれません。しかし、私は「ランナーとしてのメロス」にしか興味がありません。必死で走るときの人の有りようを知りたいのです。なので今回は、ランナーとしてのメロスにとって重要だったことだけを見ていこうと思います。
メロスはどんな走りをしたのか?
『走れメロス』の主人公メロスは、シラクスという街から故郷までの10里の道を往復します。自分の身代わりに人質となった親友を、残虐な王様から解放するためです(走りとはこの辺りの状況の説明も省略)。10里はだいたい40km。フルマラソンの距離くらい。
帰りも40kmで計80km。この往復80kmを3日間で行えばいい。距離だけなら大して難しくありません。フルマラソン完走したことがあるランナーならそれほどではないです。
しかし、この40kmの道のり、どうやらフラットではありません。「ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり」とあります。
「峠」があるのです。
メロスはトレランをしていたのです。
トレランの40kmは、フラットなマラソンに比べて体力的にかなり厳しくなります。時間も倍増する可能性もあります。山の標高や高低差、道の険しさについては書かれていないので、どうなのかわかりませんが、普通のマラソンコースよりはずっと難しいはず。
故郷に向かう「往路」は、深夜にシラクスの町を出て一睡もせず翌日の午前に故郷に到着。徹夜でランニングはなかなかハードですね。
故郷からの帰り「復路」は、二日後(3日目)の早朝に出て陽が沈むまでに戻らなければなりません。しかし、うっかり者のメロスは妹の結婚の祝宴に参加して寝坊までする始末。とはいえ、休養は十分とれたでしょうし、早朝だったのでまだ時間に余裕がありました。途中、間に合うことが確実になると、なんとウォーキングに切り替えるのん気さです。親友への想いを疑りたくなりますが、これも重要ではありません。
ところが、やはり物語です。豪雨で橋が落ちた川の濁流を渡ることになったり、山賊に命を狙われたりと、走り以上に道中の出来事が困難。しかし、私が知りたいのは、こういった偶発的な事件の顛末ではありません。あくまで、マラソン文学としての『走れメロス』。ランナーのメロスなのです。
ランナーとしてのメロスはどうなの?
メロスのランナーとしての力を見てみましょう。そもそも練習もなくいきなり40kmを走るというのはふつうの人には無理があります。マラソンランナーなら、練習もなく40km走ることがいかに困難なのか知っています。しかも山越えのトレラン。途中歩いたとはいえ、40kmを自分の足で移動するのは途方もない脚力持ち主に見えます。
メロスはその困難をやすやすとやってのけます。けっこうな体力自慢の韋駄天というところでしょう。この走りに加えて、濁流を泳ぎ切り、山賊をやっつけます。トライアスロンに近いかもしれませんが、そんなものではありません。どちらも命がけですから、ストレスも大きい。心身ともにツライでしょう。
しかし、そんなスーパーマンのメロスでも、さすがに、トレラン、洪水、山賊退治で疲れ果ててしまいます。そして、ついには血まで吐いてしまいます。
呼吸もできず二度三度、口から血が噴き出た
吐血の原因は何なのかはわかりません。が、もし現代のマラソンやトレランのレースだったら、即中止ですね・・・
物語ですから、もちろん血を吐くのもなんでもありですが、走りすぎて血を吐くというのは、もともとどこか悪かったような気がします。脱水や熱中症で気を失ってしまうというのは現代のマラソンでもあると思いますが血を吐くのはひどい。よほどの重症です。
それでも走ったメロスは、牧人(羊飼い?)なので足が強かったのでしょう。体力はとにかくある。根性もあります。
「走れメロス」のリアリティ
いきなり40kmトレイルを走れてしまう屈強な男メロス。つくり話のスーパーヒーローに見えてしまいますが、そうではありません。人間的な一面ももっています。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。
峠を登り切って、ゼエゼエ呼吸をしてしまうメロス。全文を通して「荒い呼吸」の描写はここだけですが、山をのぼり切り息が上がるこの部分はリアリティを感じさせます。ランナー目線では、血を吐くのはリアルに感じませんが、息が上がるのはリアルっぽい。
ところで、なぜメロスはこんなにゼエゼエ走るのでしょうか?それは親友を裏切らないという信念があるから。
この信念こそが、メロスの走りの原動力です。箱根駅伝でタスキをつなぐ選手の責任感にも似ています。この作品が教科書に載るのは、この辺りを学んで欲しいからでしょうか?
この物語にリアリティを与えるものがもう一つあります。それは、メロスの心に生まれる「葛藤」です。
濁流の川を渡り、山をのぼり、山賊と戦うと、さすがのメロスも疲れます。ここに午後の暑い陽ざしが メロスにふりそそぎ、意識をもうろうとさせます。
この肉体的な疲労の極限で、勇者メロスが悪い気を起こしかけます。
濁流と山賊を全力で切り抜けた自分を、よくやったと言い、自分を誉めます。
ほかの人間ならできないようなことを自分はやった。だから、たとえ完走できなくてもよいだろう、と考えます。全力は尽くしたという言い訳。人間的、あまりに人間的。
この人間的な葛藤が私にはよくわかります!わかりすぎるほどわかるのがツライ(笑)
私はフルマラソンに参加すると途中でこういう葛藤によく出会うのです。「練習は限られた時間の中で精一杯やった。普通のサラリーマンは、マラソンなんかやらない。フルマラソンに参加しているだけでもすごいことだ」こんな言い訳が浮かんでは消え、レース途中で歩くことや棄権することを考えるのです。
もっとも、私はマラソン大会はよほどのことがない限り完走はします。しかし、途中で苦しくなったり足が痛くなったりすると、続けるか、棄権するかで心に葛藤が生じるのです。これもリアルです。マラソンレースの心理のリアル。
メロスが走り切ったのは、親友からの信頼
私のような普通の市民ランナーも、マラソンでは苦しい思いをします。それでも完走できるのはメロスほど苦しくないからです。また、前回書きましたが、「自己ベストを出したいという欲」と、「ライバルに勝ちたいという欲」。この2つの欲によって、ふつうのランナーが、マラソン大会でゼエゼエ走ってしまうのです。そして、私もまた、欲をベースにしてマラソンのゴールを目指すのです。
一方、メロスは親友を人質に差し出す「ろくでなし」ですが、すでに書いたとおり、血を吐くまで走って親友との約束を守りました。メロスが葛藤を乗り越えて、予定時刻に間に合ったのは、自分を信じて待つ親友を裏切らないためです。
普通の市民ランナーは欲を力に走るので、意外と簡単に自分の目標となる自己ベスト更新を諦めてしまいがちです。
レースで自己ベストを出したい気持ち。その先には何があるのでしょうか?
自己ベストを出せばマラソン仲間に自慢できます。しかし、その程度の欲だから、血を吐くまで走ろうとは思えません。自己ベストを諦めて簡単に歩いてしまうでしょう。
それとも、自分に勝つことでしょうか?自分に勝つことを自分に約束しても、たいていの人は負けてしまうのではないでしょうか?ダイエット情報の氾濫をみれば、自分自身への約束が当てにならないことはよくわかります。
走れメロスの命がけの走りから学んだこと
マラソンでもなんでもそうですが、今の目標の先にあるものを見据える必要があります。それが他人に自慢したい程度の欲であるのなら、意外と簡単に諦められるし、実際に諦めてしまいます。自己ベスト更新をより確実なものとするためには、メロスの信念のようなもっと大きな目的が必要かもしれないのです。
大切なひとからの信頼を裏切らないように走る。ふつうの市民ランナーがマラソン大会にこんな気持ちで参加することはほとんどないでしょう。とはいえ、大切な人との信頼や約束にこたえようという気持ちは、人生の大舞台で成功するための動機としてはとても強いものになりますし、苦難を乗り越えるためのエネルギーにもなるはずです。
『走れメロス』は物語です。メロスの走りは、超人的で、やや現実離れしています。しかし、メロスを完走へと導いたものは、その体力ではなく、大切な人への思いと相手からの信頼なのです。
ランニングは体力だけでなくメンタルも大切です。信念があれば、苦しさと葛藤を乗り超えて自分の力以上の力を発揮し、自分のマラソンを走りぬくことができる。こんなテーマを、マラソン文学としての『走れメロス』から今回私は読み取りました。
自己ベストの向こう側を目指して走る。ここにこそが、走り続けることの新しい可能性があるような予感がしています。
以上、40代後半ランナーの読書感想文でした。