なぜ走る? 文化系レベルランニング

東京マラソン2010にたまたま当選してしまった「読書が趣味」の文化系人間。 それ以来、50歳を過ぎた今も、なぜか走り続けています。 走ることにどんな意味があるのか? 「からだ」「こころ」「グッズ」「レース」「本」などから、走ることについて考える、ランニングブログです。

2017年10月

一昨日10月29日(日)、「しまだ大井川マラソン」が開催されました。
今回は、数日前から台風22号の接近が予想されていたため、開催が危ぶまれていました。
当日朝も雨が降り、どうなることかと思っていましたが、主催者が開催を決定。
大会開催については、大会HPに大量のアクセスがあったようで、朝には完全にサーバーがダウン。私が開催を知ったのは、島田市HPのお知らせからでした。


今度はケガで走れず

さて、一昨日の大雨の「しまだ大井川マラソン」です。
ブログのタイトルにほのめかしましたが、私は棄権することとなりました。
理由はケガ。
足の指の骨にヒビが入ってしまいました。
大雨で棄権したランナーも多かったようですが、私は雨が理由ではありません!(誇れることでもないですが・・・)

気合の入ったランナー仲間は雨の中を走り、それほどでもない仲間は棄権。雨でも現地に応援にいくひともいれば、私のように自宅でのんびりネットで観戦というひともいました。


自宅といえど油断は禁物

私のケガは約2週間前にさかのぼります。
自宅で椅子に足をぶつけて悶絶しました。
部屋がちらかっていて、物をまたいでよけて軽くジャンプしたら、後ろ足をぶつけました。
痛みが引かないので病院に行ってレントゲンを撮ると、うっすらと足の指にヒビが!
この瞬間に島田マラソンの棄権が決定しました。

アスリートもそうでないひとも、部屋はきちんと片づけましょう!


9月は持病で入院して走れず。ようやくよくなった矢先にケガをしてしまいました。しかも、そのケガは外ではなく、家の中。
自分の馬鹿さ加減には呆れましたが、自宅室内でケガをするのは文化系らしいとも思いました。体育会系だったらかなりのイメージダウンですから、その点は救われたような気がします。(もちろん強がりですが)


走れなくなって約2ヵ月

前回のブログ更新時は、身体が弱っていて走る気がおきず、「健康は大切」「走れることは素晴らしい」というような考えだけでした。今は、体調が戻ったにもかかわらずケガで走れない状態。こうなると「走りたい」という気持ちが強くなります

春に立てた計画では、今はもうとっくに走り込みをしている時期。しかし、全然走れていません。
この計画倒れが焦りを生み、余計に走りたいという気もちが強くなっています

こうして2度の身体トラブルにより約2ヵ月走れない状態になったわけですが、今の気持ちはこうなります。

「走りてぇぇぇーー」


その結果、体重が増加

走りたい気持ちが強いことだけなら、まあケガが治るまで我慢すればよいことです。
しかし、運動不足で体重が増えてきました

健康面を考えてもよくないことですが、体重増加に追い打ちをかけたのが「食欲の秋」
例年、秋になり涼しくなってくると私の食欲はとてつもなく強くなります。
これまでは食べた分だけ走る量を増やせば、カロリーの摂取と消費のバランスは保たれていました。しかし、今はそれができません。
身体にだんだんと脂肪がつき、2kgほど太ってしまいました。
食べる量に気をつけてはいても、どうしても少し多めに食べてしまいます。
運動不足で筋肉が落ちているはずですから、ついた脂肪2kg以上と思います。


塩分も気になるお年頃

さらに、もうひとつ。
ランニングでは、よく汗をかきます。通常、塩分は汗とともに体外に排出されるので、ランニングを始めてからは、塩分の取り過ぎをあまり気にしなくなりました。
夏などは脱水になりやすいので、むしろ多めに摂るのが普通で、血圧や心電図には問題は一度もありませんでした。
ところが、走れない状態が続いているので汗をほとんどかきません。しかも、もうすぐ11月でかなり涼しく気温が下がってきています。
こうして長いこと汗をかかずにいると、身体に塩分が多すぎるような気がしてくるのです
心理的なものかもしれませんが、もう40代の半ばです。このままでは生活習慣病の餌食になってしまうのではないか・・・

ついに禁断症状のようになりました。


ランニング禁断症状を発症

体重増加と塩分過多
。そこから生じるであろう生活習慣病への不安が頂点に達し(少し大げさですが)、まあどうにか痛みが軽くなってきたケガをした1週間後くらいに、ジムのトレッドミルに乗って歩くようになりました。歩くだけでは大して汗はかきませんが、カロリーは消費するため体重の調整には役にたちます。
とにかく有酸素運動がしたかったのです。
足を引きずるようなヨチヨチ歩きですが、背に腹は代えられられません。
生きるためです。健康で文化的に。

「ケガになど負けるい。病気になどなってたまるか」

足の指は痛みます。しかし、歩かずにはいられません。

これが失われたランニングという行為の禁断症状なのだと、私は思いました。
つまり、ランニング依存症?(笑)


まとめ

今年の4月に前シーズンが終わり、次のシーズンに向けて考えたことはマラソンの自己ベストの更新でした。
トレーニング方法や調整法について思案を巡らせ、記録が出やすい冬の本命大会に向けて練習を積み重ねていく予定でした。
しかし、今シーズンのケガは計画を完全に狂わせ、自己ベスト更新はおろか生活習慣病の恐怖に脅かされるという情けない事態に追い込まれる事態に・・・

ランニングは私にとって趣味や楽しみというだけではなく、健康に関する「精神安定剤」のような役割を果たしていたのだとわかりました。
走れなくなり不安が生じるという意味では、ランニング依存といえるかもしれません。
もちろん、たばこのように身体に害があるわけではないので、走ること自体は悪いことではないのですが、走ることにこれほど精神的に依存するというのはどうなのだろうと考えてしまいました。

会社を定年退職したら、やることがなくて病気になるサラリーマンみたいなものでしょうか。
ランナーが走れなくなった時、ランニング以外のものに拠りどころを見つける必要があるようです。
ケガや病気で、いつか走れなくなる時が来るかもしれません。
走る以外の運動や趣味にも興味をもっておく方がよいかもしれません。

そして、もう一度書いておきます。
皆さん、部屋はきちんと片づけましょう!

ようやく軽く走れるくらいまで、体が復調してきました。
振り返ってみると、走ることはおろか、満足に動けない状態がありました。
そんなとき、自分の身体について知らなかったことに気づき、それまで走れていたことの意味についても考えさせられました。


「走る時間」が「読む時間」に変わる

病院のベッドで動けないときにしていたことといえば読書でした。
病室に持ち込んだ数冊の本に一日の時間の多くを費やしました。
動けない生活が数日続くと、走ることに対する関心が薄くなります。自己ベスト更新を目標に頑張っていたころは、本やネットから「走ること」についての情報をたくさん取り込んでいましたが、ベッドで寝てばかりの生活では、走りの情報にも興味がなくなっていました。

ここで気づいたのは、身体が動かなくなるだけで、時間の使い方がかなり変わってしまうということでした。特に、スポーツが習慣になっている人は動けなくなれば、それまで身体の運動に費していた時間が、身体以外の活動の時間へと置き換わることになります。


「走る」と「読む」に必要なもの

走ることと読むことには、必要とするものに違いがあります。

当たり前のことですが、「走るとき」は身体活動がメインとなります。一方の「読むとき」は、その時間のほとんどが知的活動に費やされます。
走るときに身体を動かすことを止めれば、走ることができません。読書のときに、知性が働かなければ、単なる音読の発声練習と変わりません。
走るときは身体の動きが必須で、読むときは知性が必要となります。

また、走るときには、転倒の危険があるため、周りの状況に意識を向けます。逆に読書では、周りの状況に気をとられれば本の内容が理解できないので、本のページに意識を集中します。


「走る」と「読む」の共通点

人間の活動として、かなり違っている「走る」と「読む」という行為ですが、共通点もあります。

走るときは、脚の動きによって空間を進みます。外を走れば、「自宅から公園まで」というような移動が必ずつきまといます。これに対して、読むときは、視線が文字を追うにつれて必ずページが進むことになります。
走ると読むの共通点は「進むこと」です。(走る時は空間(移動距離)、読むときはページが進みます)。

「進むこと」にはスピードの速い・遅いが関わることがあります
。そして、「走ること」も「読むこと」のどちら場合も、スピードが速いと、世間で良い評価を受けるようです。脚が速いと賞賛されます(世界一足が速ければスーパースターです)。読むのが速いと、いろんな知識が増えますから社会的に成功しやすい。

しかし、読むという行為には「理解」が伴わなければなれません


「読む」という行為の意味

スピードという視点からみると、読書については速読というものが思い浮かびます。速読の達人ともなると、300ページもあるような本を10分くらいで読み終えてしまうようです。しかし、読書には「内容の理解」が求められます。どんなにたくさんの文字を目で追っても、その言葉の意味を正しく理解できないのならその読書にはほとんど価値がありません。読むという行為には「深さ」も求められるのです。
 走ることについてはどうでしょう?走る速さのほかに、フォームの美しさなどが語られたりしますが、読書にあるような理解の深さが価値の対象になることはありません。「あのひとの走りは深い」というようなコメントは聞いたことがないです。


「深い走り」を目指したい

こうして「読むこと」と「走ること」を比べてみると、今世界中で行われている走るという行為には深さが欠けているということがわかります。
しかし、走ることの深さとは...一体何のことなんでしょうか?(笑)

読書の深さが、本の内容の理解の深さであるとするなら、走ることの深さはランニングとその身体についての深さのような気がします。
走るという行為の意味が、人々にもっと理解される時に、「深い走り」というものが生まれるのでしょう(それがどういうものか想像がつきませんが...)。

私の走るスピードはそれほど速くありません。なので、私は死ぬまでに「あの人の走りは深いなあ」と感心されるような深いランナーになることを願っています。

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