『哲学者が走る: 人生の意味についてランニングが教えてくれたこと』(マーク・ローランズ著)という本を読んでみました。

著者はアメリカの大学で哲学を教えるイギリス人の教授です。
哲学の教授だけに、私が今まで読んだランニング関係の本を中では、「走ること」について最も深く・広く考えています。
ちなみに、この本の中でローランズ教授は、私がランニングの心の師と仰ぐ村上春樹氏についても言及しています。

今日はこの本を読んで、私が「走ること」の本質について考えさせられた一節をご紹介します。


走ることと、空間移動すること

ランニングでは、目標はAからBに移動することあるいは自宅からスタートする場合にはAから初めてAに戻ることである。この前置きの目標を達成するにはドライブ、徒歩、サイクリングなど様々な方法がある。
事実、目標がAからAの場合には、そのままそこにいるだけでもすむ。

私はこのブログを書き始めてから、走ることの意味について考えるようになりましたが、「走る」という行為が空間を移動することを前提にしていることについては当たり前すぎて、それについて深く考えることはありませんでした。しかし、この文章を読んだときに考えさせられました。

著者は上の文から、ランニングは「ゲーム」であり「遊び」であることを説明していきますが、私はむしろ走ることと空間移動に目が向きました。
 
私がいつも使っているランニングマシン(トレッドミル)は、どうなるのか?、と。


ランニングのコペルニクス的転回

かつて、走ることは空間を移動することを前提としていました。
しかし、室内で走るための道具であるトレッドミルが生まれ、空間を移動せずに走ることができるようになりました。
技術の進歩により、走るという行為は、空間の移動を前提としなくなったのです。

では、トレッドミルはなぜ空間を移動せずに走れるかというと、空間の代わりに地面の役割をするベルトが移動してくれるからです。ランナーの動きは、空間移動に代わりベルトの回転運動に置き換えられます

「自分が動くか、それともベルトが動くか」というこの変化は、「太陽が地球を回るのか、それとも地球が太陽を回るのか」、というかつての天動説と地動説の違いを思い起こさせるものです。トレッドミルの登場は、まさに、ランニングのコペルニクス的転回といえるでしょう。


空間を移動するランニングの場合

トレッドミルは、新しい技術による「動く地面」の発明であって、動かない地面をベルトによって動かし、本来なら身体が被る空間移動をなくしてしまいました。
しかし、トレッドミルは特殊な例で、通常は地面が動かないため、ひとが走ると普通は空間を移動することになります。

空間を移動するときは、引用にあるように「A地点から違うB地点に行く、あるいはA地点から同じA地点に戻る」ことになります。

ローランズ教授はこれについて、"目標がAからAの場合には、そのままそこにいるだけでもすむ”といいます。

ゴールとスタートが同じならば、走っても走らなくても(移動してもしなくても)一定時間の経過後に同じ場所にいれば結果は同じ。走るということは、空間移動が目的ではないということなのです。
走るという運動は本来、空間移動を前提としますが、それは走ったことの結果でしかありません。

走ることで空間を移動しますが、走ることは移動そのものが目的ではないということです。


マラソンは何を目的とするか?

マラソンレースは42.195kmを移動します。
マラソンは走る競技なので、この距離の移動は前提となります。
しかし、同じ距離なら何でもいいというわけではなく、走ることは人間の足で行い、かつ、同じレースならば、決められた同じコースを参加者全員が走るということになります。

恐らく、マラソンのルールでは走ることを強制してはいません。ゴールのタイムを参加者が競うため、より早くゴールにたどり着くため、あるいは、制限時間内に完走するため、全員が結果的に走るということになるようです。

マラソンは、同じコースを人間の足で移動し、なるべく早くゴールするのが目的のゲームということでしょう



今回は走るということについて少しだけ哲学的に考えてみました。
レースのシーズン中には、こういうことは考えません。シーズンオフいうことですね・・・