謹賀新年 2017年が今日から始まりました。
本日は元日を記念して村上春樹氏の著書「Sydney!」をご紹介します。

この本は、2000年9月にオーストラリアのシドニーで行われたオリンピックを村上春樹氏が取材してまとめたものです。この本をなぜ正月の一日からここでご紹介するかと言えば、この本の本題である「シドニー日誌」の前に置かれた序章とも言える文章が素晴らしく、これについて2017年の第一日に書きたかったからです。

この文章のタイトルは「1996年7月28日アトランタ」
章のタイトルのページをめくりると次のページに小さく「有森裕子」とだけ書かれています。これを見落とすと、誰のことが書かれているのかわからず混乱してしまいます。私は村上氏が自分のことを書いているのかと勘違いして混乱しましたが、有森選手がアトランタオリンピックのマラソン競技を走っている様子を描きだしています。
また、有森選手の心の中でのつぶやきが鍵かっこにくくられていないため、「私」という言葉が誰を指すのかわかりにくい部分があります。ここを注意すれば、村上氏の文章に引き込まれて行くはずです。

アトランタ五輪の女子マラソンと言えば、有森選手が銅メダルを獲得し「自分を褒めてあげたい」という言葉を残して感動をよびました。私たちはその姿をテレビで見て、彼女の気持ちを推し量るのですが、実際の気持ちはご本人にしかわかりません。
マラソン中にもライブ中継というものがあり、その様子を視聴者はリアルタイムで見ることができます。解説者は自分の経験や知識から、選手の調子や気持ちを「説明」してくれるわけですが、画面の向こう側で実際に競技する選手の本当の気持ちや考えまではわかりません。

この作品で村上氏が描くアトランタ五輪の有森選手は、レースを走っている気持ちをレースの走っている時間とともに伝えてきます。自分の身体のこと、ライバルの様子、刻々と変わるレース展開と自分の気持ち。フルマラソンを何回か走ったことがある人であればおそらくその気持ちが自分のことのように感じられるでしょう。
村上氏が有森選手を取材したインタビュー内容を対談形式でをそのまま載せるのではなく、小説の文体で物語を進めていく。マラソンのメダリストの心境がリアルタイムで体感できるこの文章の迫力には圧倒されます。


中身について少しだけ触れます。
内容を簡単に言いますと、有森選手の激走と苦しみの記録です。
私のような「文化系」のランナーはとくにへばるのが早いですから、身体が動かなくなって苦しい気持ちについては、とってもよくわかります(タイムも練習量もプレッシャーもまったく違いますからそもそも同一視しては失礼ですが・・・)。とてもよくわかるので、すごい精神力で戦っている様子が、自分のことのように思えてしまい、涙が出そうになります。

村上氏の文章の力に脱帽というところですが、これはもしかすると、フルマラソンを走った経験がなければわからない心境かもしれないとも思いました。
フルマラソンは30~35kmを過ぎると本当に苦しいです。どんなに調子がよくてもやっぱり苦しい。諦めて歩いても苦しいし、頑張って走っても苦しい。
この作品では、33km付近での有森選手の様子がこんな風に書かれています。

”死ぬこと
エゴロワに抜かれた時点で脚が停まった。それはすっかり死んでしまった。”


少しドキっとしますね。
しかし、有森選手は脚が死んだ後も、粘って粘って食い下がりました

こんな一節もあります。

”彼女にとってのランニングは二種類しかなかった。まずまず苦しいか、ひどく苦しいか、どちらかだ。ほかの選択肢はない。”

私はここまで追い込んでいるわけではないですが、フルマラソンは毎回苦しくて、ゴール後はいつも達成感よりも終わってホッとした感じが大きい。ゴールするとホッとするくらいなら初めから出なければよいのでしょうがなぜか出てしまう。そんな苦行にも似たフルマラソンをなぜ走るのかは謎ですが、すくなくとも村上氏の文章を読んで大きな感動を得ることができたので、走っていて良かったなと思えたのでした。

そして、競技終盤の様子はこう描かれています。

”それでもようやく坂の最後の部分が見えてくる。アトランタの四十二キロはあと少しで終わろうとしている。
でも一方では、何ひとつ終わりはしない。彼女にはそれがわかっている。バルセロナのときにはわからなかった。だからその後の何年かあいだ、ずいぶん苦しむことになった。でも今はわかる。これが終わりではない。なにか別のものの新たな始まりなのだ。・・・ ”

昨日1年が終わり、今日また1年が始まりました。人生の節目では何かが終わると同時に新しいものが始まる

ランナーには超おすすめの一冊。ぜひご一読ください!




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